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マタイによる福音書25章31~46節
本日の福音書は「すべての民族を裁く」とサブタイトルがつけられている箇所です。世の終わりに人々が右と左に分けられる時の様子をイエスが語った場面です。「いつ」という言葉が何回も繰り返されどちらの人たちも「自覚がない」のにその振る舞いによって分けられる様子が描かれています。結果だけを見れば、左側にいる人たちは自業自得のように感じられます。行動するべき相手と時期を見誤った愚か者たち、と感じられる書き方になっていますよね。だから「行動する時を、助けるべき人を見極めましょう」というわけです。でも、こう結論付けてしまったら、会社的には正しいのだと思いますが、教会的には何かが違うのです。だってそうでしょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」が誰なのか、わたしたちには正確にわからないからです。もしかしたら偽っているかもしれない、救うべき人はもっと別にいるかもしれない、と考えていくと訳が分からなくなってしまいます。もし偽って助けられて得をする奴がいたら悔しい、そんな思いになるかもしれません。
「この人が『この最も小さい者』です」という旗が、わたしたちの目の前にいる誰かの上についていてくれたらどんなに楽なことでしょう。迷うことはありません。ちゃんとみんな救われることができます。一人ひとりその対象が違ったとしても大丈夫です。「わたしなんかが」という遠慮もなくなり、誰かが不当に利益を得ることなくすべてが平等です。もちろん「誰がそれを決めるのか」という問いはあるのですが、それは神さまにお任せして、わたしたちは何も考えずに行動することができるのです。でも残念ながらこの世はそんな風になっていません。最近のゲームよろしく向かうべき場所に印もついていませんし、自分から見て「なんでこいつを助けなきゃいけないんだ」という状況は続きます。どうしたらいいのか、わたしたちはいつも迷っています。もしかしたらわたしたちはもう、左側にいる人たちのように見逃してしまっていて、滅びに向かうことが決定されているかもしれない、と考えるとちょっと怖くなってしまいますね。
じゃあどうしたらいいんだよ、と叫びたくなってしまいます。でもこれ、タラントンと同じことじゃないかなと最近思っています。わたしたちの持っているものが輝くのって、「○○してやろう」と意気込んでいるときよりも、何も考えずに言ったことややったときの方が多いのではないかと思うのです。「あの時「○○」って説教で聞いて救われました」と言われることが時々あるのですが、何を言ったのか思い出せないことがよくあります。「あの時そこにいてくれてよかった」「あの時訪ねてくれてよかった」わたしたちにとってはとても重要な思い出ですが、それを為した人にとってはただの日常の一コマであって、もう覚えていないことだったりします。わたしたちは、他人と関わろうとして生きているとき、救ったり救われたり、傷つけたり傷つけられたりします。「この最も小さい者」とは誰だろうとよく思います。僕は「最も」という言葉がよくないのかな、と思うことがあります。だって「最も」「一番」という時、なんというか「一番○○な人」という誰か特定の一人を想定してしまいますよね。でもその「最も小さい人」は無数にいて、わたしにとってのその人は、あなたにとっては違うかもしれない、ということです。自分にとって「困っているのかな」と思う人がいて、そう思ったら行動をためらわずにね、ということなのだろうと思います。そして何より、絶対にわたしたちは見誤ってしまいますが、それでいいのだということです。だってミスらず的確に助け続けられる人なんかいませんよ。できたらそれは神です。わたしたちは神になろうとして落ち込まなくていいので、目の前に出会う一人一人を大事にするところから始めていきたいと思うのです。