真っ白な光
マルコによる福音書 9章2~9節
本日は大斎節前主日。毎年共観福音書から山の上でイエスの姿が白く変わる場面が読まれます。白く輝くイエスと同時にモーセとエリヤが現れて共に語り、イエスと一緒にいたペトロ、ヤコブ、ヨハネが恐れるという場面です。モーセとエリヤからイエスに引き継がれ、その後はペトロ、ヤコブ、ヨハネに引き継がれてく様子が描かれます。
人は姿を変えることがあります。「普段は家でぼへーっとしている夫が仕事の時は見違えるようにシャキッとしている」とか、「家ではわがまま放題の子どもが学校ではきちんと授業を受けている」とか、色々なパターンはありますが、場面場面で自分の姿を使い分けているものです。ここで偉そうにしゃべっているわたしですが、当然家にいるときとは違う姿に見えていると思います。若い人たちは「キャラ」を使い分けると表現するそうですが「この場所ではこう」「あの場所ではこう」と使い分けるのは自然なことなのだと思います。だってそうでしょう。改まった場にいるときの受け答えと、友人たちとバカ騒ぎしているときに同じ言葉遣いをするってありえませんよね。わたしたちは自ずと自分の姿を使い分けているのです。
「イエスの姿が変わる」と最初にイメージしたとき、どういうことだろうと考えました。衣は真っ白で、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほどだと。これは、ただ単純に「変身した」というよりも、モーセやエリヤと「同じ」姿になることが重要だったのだろうと思います。ではなぜその色が「白」なのか。光の三原色という法則があり、光を重ねていくと最終的には「白く」なるのだそうです。私たちの周りにあるものには色がついていますが、すべての色を光として統合していくと「白く」なります。神は「光」なのです。モーセとエリヤは神のところからやってきています。そして、彼らもかつてこの地上で神の「光」を受けて輝いたことがあります。だからこそイエスも彼らと同じ姿になって語らうわけです。しかし、これで終わりではありません。雲が現れ、彼らを覆うと、声がします。そして普段のイエスの姿が残るのです。
イエスは天に戻ってしまうのではなく、弟子たちのところに戻ってきました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の言葉も残されました。イエスは天にあるときは、天にふさわしい姿になり、わたしたちの間にいるときはわたしたちのところにいる姿になります。イエスは神のところからわたしたちのところにやってきて、わたしたちに近い姿で、わたしたちが見本にしやすいようにしているのです。でも、わたしたちが聖書を読むとき、イエスの姿は必ずしも、現代を生きるわたしたちに「近い」とは言えないことがあります。聖書は2000年前の書物なので仕方がありません。だから「意味がない」という人たちもいます。でもそうではなく、イエスは、時代が変わってもわたしたちのそばに現れます。わたしたちの生きているこの現代にも来て、そしてわたしたちの間で、わたしたちに必要なことを示してくれています。学校で、会社で、施設などでも、その辺の公園にいるかもしれません。困っている人に寄り添い、病をいやし、人を立ち上がらせる、そんなイエスの姿を、わたしたちは多くの人を通して見ることができます。「この人がイエスの生まれ変わりだ」ということではなく、多くの人がイエスに倣っていることで(意識的にも無意識でも)、イエスの姿が現代にも見えるということです。今、イエスが現代に来たらどうするだろう、とちょっと考えてみてください。そしてそれが実行可能なことなら、わたしたちの「姿」をちょっとだけ変えてみませんか。そうやってわたしたちも「イエスに倣う姿」に作り替えられていくのです。