真理を知っているなら

2024年11月24日

ヨハネによる福音書 18章31~37節

本日の福音書はヨハネから、イエスがピラトに尋問される様子が読まれます。最後でイエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、わたしの声を聞く」とピラトに語っています。

このイエスとピラトとの問答は、読んでみるとすれ違い過ぎていて、お互いに理解ができるように思われないやり取りがずっと続きます。微妙にかみ合っていないもどかしさがあり、別に難しいことは話していないと思うのですが、どうも気持ち悪い箇所です。

ピラトはイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼ばれている人として尋ねますが、イエスにとってその称号はどうでもいいものです。なぜならイエスは「ユダヤ人だけを救う王」ではなく、いわば「すべての人を救う王」だからです。ユダヤ人とローマ人という世界観で語るピラトと、ユダヤ人だけでなくすべての人という世界観のイエスとは、一部分共通しているようでありながら視点がまったく違うため、分かり合うのは難しいのだろうと思います。

ピラトは繰り返し「王なのか」と問いかけます。これは、ピラトがローマから派遣されたユダヤ地方の総督だからです。ローマ帝国の支配下にあるユダヤ地方にはヘロデという王がいますから、それ以外の王がいるとなると、もしかしたら帝国の支配を揺るがす相手かもしれません。特に、自分が「王だ」と宣言している人物であるならその危険は跳ね上がりますから、警戒するのは無理もないでしょう。ヘロデ王はローマに協力的ですが、新しい王がローマに協力的だという保証がないからです。けれども当然ですがイエスにはそんな気はさらさらありません。だからこそ「ほかの者がわたしについてそう言ったのか」と返すわけです。そして、この裏には「メシア」という言葉に対しての意味のすれ違いもあります。この時代に「メシア」と言った時、「ローマから解放してくれる指導者」という意味合いのほうが強いのです。だから「ユダヤ人の王」という言い回しが出てくるわけです。しかしイエスの考える「メシア」は「苦しみを受けて殺され、復活する者」です。そして復活して「王」になるわけですがそれは「この世」ではなく、「新しい世」でのことです。再臨の後の話で、ずいぶん先のことです。だからこの時点でいろいろな意味ですれ違ってしまっているのです。もちろん、これはわたしたちが後で振り返っているからわかることです。「イエスがメシアである」、そして「メシアは苦しみを受けて殺され、復活する者である」という「真理」を知っているので、ああ、こうすれ違っているのだなとわかります。しかしもしこの出来事がわたしの目の前で、現在進行形で行われていたとしたら、その「真理」に到達する自信はまったくありません。

イエスを訴えた人々が言っている通り、実はイエスは確かに「王」です。しかしそれは「すべての人の王」であり、「この世」ではなく「新しい世」の王として戻ってきてからのことです。その支配も、多分、はっきりとはわかりませんが、この世に今まであるどんな王権とも違うものになるでしょう。きっとその時が来るまでわからないに違いありません。神さまの考えていることは、わたしたちに推しはかることすら難しいのです。すくなくともはっきりと確かなことは、わたしたちは「イエスがメシア、救い主である」という真理を知っているということで、イエスが再びこの世に来て「すべての人の王」となることを待っているということです。だからこそ、ときどき来るイエスからの呼びかけに耳を傾けながら、この世が少しずつ神の国に近づくように、日々を生きていきましょう。主は再び来られます。


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