神の先ぶれ

2023年12月10日

マルコによる福音書1章1~8節

 本日の福音書はマルコによる福音書の冒頭部分。洗礼者ヨハネについて語られます。「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と「荒れ野で叫ぶ者」として、ヨハネは「私よりも力のある方が、後から来られる。」と語ります。

わたしたちが今通っている「道」、日本ではたいていのところできちんと舗装などの整備がされており、凸凹で崩落している、なんてところはよっぽど人が通らないところでもない限りあり得ません。少なくとも街中だったら、多少曲がっていたとしても歩いたり車で走ったりするのに不便はありませんね。「道はきちんと整備した方が良い」というのは、わたしたちにとってある程度常識ではないかと思います。でも、預言者イザヤの時代だとちょっと事情が変わります。「道」をきちんと整備するのは「危険だ」という考え方があるのです。ユダヤの国は交通の要衝にあります。周辺の多くの国がその場所を欲しがって争っていました。歴史的に完全に独立していたというよりは、周辺のどこかの国に従属していることの方が多かったのです。ですから、国防上の観点からも「道」を整備してまっすぐ、きれいにしてしまうと、「敵」もまた攻めてきやすいので、わざと曲がりくねった道を作ったりボコボコにしておいたりして、敵を迎え撃つ場所を作る、いざというときのために備えておく、という考え方のほうが普通でした。そんな中でイザヤは「主の道を備えよ」「まっすぐにせよ」と呼びかけているのです。今でこそ当然のように聞こえますが、その時代の人はぎょっとしたかもしれませんね。

イザヤは、自分の後から「神が来る」ということで「主の道を備えよ」と呼びかけました。「主の道」というのは、当時の理解ですと「国を平定した王」が、自分の通信を容易にし、情報や物資の流れをスムーズにするために整備した道です。国が安定していて、外敵からも守られ、人や物が移動しやすくなります。そして自分が国内を巡ることも容易です。だからまっすぐな道を作るのです。主=神が地上を巡るための道を整備して迎えよう、神に国中を巡ってもらおう、ということです。

ヨハネは自分のことを「神の先ぶれ」として理解していました。自分の後から「神」が来られる。だから自分は神の言葉を伝える「使者」として、神に先立って、道を整えるように人々に伝えました。「洗礼者」ヨハネの名が伝える通り、ヨハネの宣教の方法は「洗礼」でした。今のわたしたちにとって「洗礼」は一回限りのもので、何度も受けるものではありません。しかし当時のユダヤの人々にとって「洗礼」とは、「罪を悔い改める」ために受けに行くものであって、何度でも受けられるものであったのです。だから多くの人々が、ヨルダン川へ行って洗礼を受けました。これはヨハネにとって、多くの人々の「道を整える」ことでもありました。「洗礼」によって「罪の悔い改め」が起こることで、受けた人の心は神さまに向かいます。主の道が、荒れ野であったその人の心に通るのです。そうすることで、のちにイエスがほとんど同じ形ですが「聖霊での洗礼」を授けるとき、主が、聖霊が、まっすぐその人にやってくることができるのです。そして、その洗礼をわたしたちも受けています。わたしたちの心には、実はまっすぐな道が、主の道が、神さまのほうに向かって伸びているはずなのです。みなさんはその主の道を整えているでしょうか。

わたしたちの心は、すぐに荒れ野になってしまいます。でも、こうして年に一度、道を整備することで、主の道は再び神のもとへ通じます。そこを通ってイエスがやってきます。その道を祈りによって整えながら、今年もクリスマスを待ちましょう。主は来られます。


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