神を信じて進むこと
マタイによる福音書 4章1~11節
今週から本格的に大斎節に突入します。今日の福音書は「荒れ野の誘惑」。荒れ野に行ったイエスが悪魔から誘惑を受け、これを退けます。
イエスは「悪魔から誘惑を受けるため」「霊に導かれて」荒れ野へ行きます。普通に考えれば「悪魔の誘惑」なんて無いほうがいいに決まっていますが、「霊」にとっては違ったようです。「悪魔の誘惑」がイエスに必要だと認識して、そのために荒れ野へ導いたのです。「救い主」(メシア)としてのイエスは「悪魔」よりも上であるということを証明するためでもあったのでしょうか。
イエスが受けた誘惑は3つです。1つ目は「石をパンに変える」ことです。当たり前のことですが四〇日も断食したらお腹が間違いなく減ります。極限の空腹です。しかしそれでもイエスは「人間とは何か」という問いとしてこれを退けます。「神の口から出る一つ一つの言葉」というのは、ただ単に聖書のことを指すだけではなく、神の言葉によって作られたあらゆるものを指しています。ですから、人間は神によって生きているのであって、ただ単に「食欲」を満たすだけの生き物ではないということを示したのです。2つ目に悪魔は聖書の言葉を使って誘惑してきます。これは怖いですよね。「聖書に書いてある」と言われたら、思わず信じてしまいそうです。でも、聖書の言葉はただ単に書いてあるとおりにすればいいというものではありません。その言葉が書かれた状況や時代も見なくてはなりませんし、その箇所と反対のことを言っていることもあるからです。何よりもその背後にある神さまの意図を見抜いていかなくてはならないのです。「聖書にあるから」で思考を停止するのではなく、本当に神さまはそのことだけを言いたかったのか、その反対のことを言っているところはないのか、考えてみる必要があります。また、この誘惑で大切なのは、「神を試してはならない」ということです。「神さまはいます」。だからその存在を試したり、神の配慮を試したりするのではなく、神によって生きている人として振舞うことが大切です。そして3つ目の誘惑は「偶像崇拝」に関してです。現代において「偶像崇拝」というのはなかなかピンときませんが、一つ大切なのは、「あなたにとっての神は誰ですか」「判断基準は何ですか」ということです。「偶像崇拝」の本質は、「神以外のものを神にすること」です。もう少しわかりやすく言うと、普段生きている中で重要な決断をする時に「神さま」を基準にして、例えば祈って決めるのではなく、「テレビの文化人」とか「タレントの言ったこと」を基準にしてしまったりすること、「自分」が「神さま」に聞くのではなく「誰か」が聞いた「神さま」を基準にすることです。そして「うまくいかない時」にも神さまに拠り続けることができるかです。
これらの3つの誘惑は、わたしたちにとっては一部縁遠いもののように感じられます。しかし、これらのどれもに共通しているのは「神さまを神以下のものに引きずり降ろそう」という動機です。「信じるに値しない」ものに神さまがなるのなら、「信じる」ことはできなくなってしまうからです。石をパンに変える誘惑には遭わないと思いますが、試みに対処する力を神さまが与えてくれることを疑問視する誘惑にはさらされます。崖から飛び降りることで神さまを試みようとする人はいないかもしれませんが、「うまくいかない時」に神の助けを疑問視する誘惑にはいつもさらされています。「偶像崇拝」なんて考えたこともない人がほとんどでしょうが、「神さま以外の誰かが言ったこと」が基準になったり、それを妄信してしまったりすることがありますよね。「神さまを信じる」ということは、今も昔も誘惑にさらされるものです。それでも、それらを退けられたイエスさまを見て、わたしたちは、まったく同じようにできなくても、進んでみようとする勇気を得るのです。