突然
マタイによる福音書 24章37~44節
今日から降臨節。クリスマスの準備の期間が始まります。教会の暦は新しい一年に入り、最初がお祝いの準備。世間もクリスマスの装飾があちこちに目立つようになり、なんとなく気分が高揚してくるものです。
わたしたちは通常、様々な予定を立てて、その予定通りに動くようにしているものです。まったく予定がなくて行き当たりばったりでも、例えば日曜日は礼拝に行くとか、平日は仕事に行くとか、何曜日に病院に行くとか、何ヶ月もまったく予定が入っていない人はいないでしょう。わたしたちは先々のことを見通しながら生きているとも言えます。考えてみれば、旅行や出張などは下手したら1年以上前から決まっているものもあります。そのために必要な飛行機や列車などを事前に予約していたりもします。
しかし一方で、わたしたちの生活には結構「突然」のことも降りかかってきます。先日地震がありましたが、大きな地震などはいくら予測していても予測しきれるものではありません。新型コロナウイルスだって、いつ大きな流行があるのかわかりません。子どもがいつ熱を出すのかわかりませんし、交通事故などはいくら気を付けていても起こってしまいます。イエスの再来だって、2000年間来ませんでしたが、いつ来たっておかしくはないのです。もちろんすぐ来ない場合もあるんですけど。だからわたしたちは、どんなことがあってもおかしくないとは思いつつ、普段通りの生活を続けています。2018年の胆振東部地震の前日も、普通に猫と一緒に眠りについていました。しかし地震がやってきて、その日常は変わってしまいました。こういった事態に備えるはずの緊急地震速報は、揺れが始まってから布団の中で鳴り響いていました。ああ、やっぱり予定通りにはいかないものだなと思いつつ、被害状況を確認しながらあちこちを訪ね歩いたことを思い出します。
「目を覚ましていなさい」とイエスは言いますが、さすがに「物理的に」寝ないということは不可能です。むしろ睡眠はきちんと取らなければ、主の御用のために働くことなど到底できることではないでしょう。わたしたちは「信仰的に」目を覚ましていることが必要なのです。まず大切なのは「いつイエスが来てもおかしくない」ということを覚えていることです。イエスさまをいつお迎えをしてもいいように準備しておくことです。
さらに大切なのは「いつ何が起きてもおかしくない」と思いつつ普段通りの生活を送ることです。福音書の中でも、普段通りの生活の中に「突然」起こったことだと記されています。そして「連れ去られてしまう」と表現されていますが、きっと「連れ去られてしまった」彼らはその「世の終わり」に必要な人として呼ばれていったのでしょう。「突然の世の終わり」に対して働くことができたからではないかと思うのです。
人の生活の営みが予定通りに行くことは決してありません。「突然」の出来事に振り回されてばかりです。わたしたちができることは、」「突然」のことは「起こるに決まっている」と考えて、起きたことに対して対処していくことだけです。先のことはわかりませんが、「予定があるのに」とこだわるのではなく、「何が起こっても何とかする」姿勢でいることです。それは自分のことかもしれないし、家族のことかもしれないし、国家的なことかもしれませんが、どれでも同じです。そしてもう一つ大切なのは、何が起こっても神さまがわたしたちと共にいることを信じることです。神さまが必要なものを備えてくれると信じることです。だからわたしたちは「突然」何が起こっても大丈夫です。主が守ってくれるから「突然」にもいくらでも対処できるのです。