聖霊の力によって
ヨハネによる福音書 20章19~23節
聖霊降臨日、おめでとうございます。今日が教会の誕生日。わたしたちのところに再び聖霊がやってきました。福音書はヨハネから復活のイエスが使徒たちに「聖霊を与える」場面が読まれます。閉じこもっていたところにやってきたイエスが真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言い、使徒たちに「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけます。
「聖霊」の降臨によって、これで三位一体の三つの位格が揃ったということになりますが、「父なる神」と「イエス・キリスト」は、わたしたちにとってもなんとなくわかるものなのですが、この「聖霊」だけはなかなか「こう」と言い切ることが難しいものです。絵画などを見ても「聖霊」を絵にすると「炎」だったり「鳩」だったりと、「象徴」として表されることはありますが、「聖霊そのもの」を描くというとどうやって描いたらいいのかわからないのだろうなと思います。「聖霊」について書かれている聖書の箇所を拾ってみても「激しい風」「音」「息」「炎のような舌」「鳩の姿」などなど、どうも捉えどころがないように思います。「聖霊」っていったいなんなのでしょう。
イエスは「息」を吹きかけて弟子たちに聖霊を与えます。この「息」は、神が人を創造したときに人に与えた「神の息」であり、今もわたしたちの内にいるものです。だからこそパウロは、わたしたちの体は「聖霊の宿る神殿」であるとコリントの信徒へ書き送った手紙で言っています。じゃあ、この「息」ってなんでしょう。肺が収縮を繰り返すことで、基本的に人間は意識せずとも呼吸をしています。意識してコントロールすることもできますが、完全にいつも意識することはできません。人間の力の範囲の外に「息をする」という動作はあります。神さまの力がそこに働いているのです。「息」だけ見れば、ただの空気の動きにすぎません。吐く息にはおそらく、吸った息、その辺にある空気よりも酸素が少なく、二酸化炭素多めだとは思いますが、大した違いはないはずです。空気が動いている、ただそれだけです。聖霊はまた「風」とも表されますが、これもまた空気の動きです。「音」も空気の振動ですね。こう考えていくと「空気」自体が聖霊なのだろうかと思ってしまいます。だとすると、わざわざ「息」を吹きかけるのは変ですよね。だって空気はその辺にあるではないですか。「聖霊」は「空気の動き」であると同時に、それだけではない働きをもっているものなのです。その一つは「人と人とをつなぐ働き」です。
使徒たちはイエスによって聖霊を受けた後、イエスの十字架の死から解き放たれて、閉じこもっていた家から外に出ることができました。そして一緒に集まっているとき、使徒言行録によれば全員に聖霊が降って、その時から「教会」として活動を始め、イエスのことを「福音」として多くの人に知らせていくようになりました。一人で始めたのではなく、集団で始めたのです。そこには確かに「聖霊」の働きがあったのです。彼らの間に「聖霊」が満たされたことによって、一人ではなく「教会」として、彼らは福音のために働き始めました。恐れて閉じこもっていた姿からは想像もできないことです。「聖霊」が人と人との間に満ちるとき、人は自分の内からも外からも聖霊によって強められ、みんなで神さまのほうを向いて生き始めることになります。
もちろん、わたしたちは弱く、使徒たちのようにいつもあちこちに行って、恐れずに活動できるわけではありません。だからこそ共に祈り、自分の内にある「聖霊」を強くするのと同時に、外にある「聖霊」の力を受けるのです。今年もまた「聖霊」がわたしたちのところにやってきています。迎え入れて、わたしたちの内にもある「聖霊」と共に、主のためにこの道を進んでいきましょう。