聖霊の力を知る
ヨハネによる福音書20章19~23節
今日の福音書は復活のイエスが弟子たちの真ん中に現れ、聖霊を授ける場面です。イエスは息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と弟子たちに言います。また、その聖霊によって「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というのです。
「罪を赦す」と一言で言っても、なかなかイメージがわかないのではないかと思います。「赦す」というのは、「〇〇していい」(許可する)こととは違います。「罪を許可する」じゃ意味が分かりませんよね。「悪いことしてもいいですよ」って意味に聞こえてしまいます。イエスさまはそんなことを言うわけありませんね。また、「罪を無かったことにする」わけでもありません。たまに「キリスト教の人は悪いことしてもなかったことにできるんだよね」というニュアンスのことを言われるのですが、そんなわけないじゃないですか。キリスト者にだって法に触れる人はたくさんいますし、普通に逮捕されて刑務所に収監されることもあります。キリスト教に改宗するだけで悪いことをしなくなるんだったら、もっと世界中にキリスト者は増えています。が、そんなわけはありません。
さて、ではそもそも「罪」とはなんでしょう。キリスト教の概念における「罪」というのは、人を創造した神さまのほうを向かずに生きることです。神さまは人を神のほうを向いて、ほかの被造物と共に生きるように創造したはずなのに、そこからそれてしまっている、それが「罪」なんです。決して法に触れるとか悪いことをするという意味ではなくて、そのもう少し手前にあることなんですね。神のほうを向かなくなる結果、ほかの被造物、例えば周囲の人に対して乱暴にふるまうということが起こりえるし、自分のことだけ考えてしまうようになって法を犯すようになる、所謂「犯罪」というのはすでに「罪」を重ねた結果であるということです。だからこそ「罪」の段階で修正して、再び神さまのほうを向いて生きるようにする、促すというのが「赦す」ことに当たります。「赦す」というのは本来神さまの力によって行われることですが、それが「聖霊の力」によって「聖霊を受けた人」すなわちキリスト者にもできるようになるということです。わたしたちは簡単に「罪」の状態に陥りますが、それは恐れることではなくて、そうなっても周囲の人たちが「聖霊の力」によって、わたしたちを「赦し」て、元の方向に戻してくれる、神さまのほうを向いて他の被造物と共に生きる生き方に戻してくれるということです。
こう考えていくと「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というのは怖いことかもしれません。なぜならば「罪」が積み重なっていけば、大きな事件が起こってしまうかもしれないからです。「罪」を見逃してしまうことによって、その人を取り返しのつかない方に向かわせてしまうかもしれないからです。わたしたちが「赦す」というのは「赦して」それで終わりということではなく、関わり続けることだからです。わたしたちが出会ったすべての人に関わるのは不可能ですが、自分の身近な人ならできるはずです。わたしたちが「関わり続けて」、つまり「赦し続けて」いくことで、自分の周りの人をも、神さまのほうを向いて生きる生き方に立ち返らせていく、これがキリスト者の生き方なのです。
こう考えると「めんどくさいな」とか「しんどいな」とか「大変だな」と思うかもしれません。それはよくわかります。でも大丈夫。そのためにイエスは「聖霊の力」をわたしたちに授けてくださっています。その力の導くままに、わたしたちは周囲の人々と共に生きていきましょう。できれば一緒に神さまのほうを向いて、逸れそうならそっと手を添えて、手を取り合って進んでいきましょう。