腹いっぱい食べられる幸せ

2024年07月21日

マルコによる福音書 6章30~44節

 本日の福音書は「五千人の給食」。イエスは弟子たちを休ませようとしますが、群衆がついてきたこともあり、憐れんで群衆を教えます。しかし夕方になったので弟子たちは群衆を解散させようとしますが、イエスは食べさせるように命じ、五つのパンと二匹の魚を五千人もの人々に分け与え、群衆はみんな満腹になりました。

この「五千人の給食」の話はすべての福音書に収録されています。ということは、それだけ重要な話だったということになりますね。「どうやったのか」ということはもちろん、「どのくらい時間がかかったのか」を考えても簡単に行うことは不可能で、それこそ「奇跡」としか言いようのない出来事です。しかしそれを言い換えると、ある意味「現実的」な話ではないので、眉に唾を付けて聞かれてしまいそうです。

しかし、聖書において「それが実際に起こったことかどうか」を考えるのはあまり意味がない、とわたしは思っています。この「五千人の給食」はどうしてすべての福音書に収録されるくらい人気のある話だったのだろう、「意味がある」とみなされたのだろうと考えてみましょう。旧約聖書の時代から、「神によって食べ物が与えられる」話がいくつもあります。出エジプトの時の「マナ」は、天から与えられたパンで、これがあることでイスラエルの民は旅を続けることができました。この「マナ」は、みんなが必要なだけ与えられるものでした。またエリヤを匿ったサレプタのやもめは、神によって「小麦粉と油」を得て、干ばつが終わるまで食べ続けることができました。必要なくなる時まで与えられたのです。

「食べる」という行為は人間が生きる上で欠かしてはならないものです。死んでしまいますからね。わたしたちはお腹が空けばイライラするものですし、元気もなくなってしまいます。しかし食べ物をきちんと食べていれば、大抵のことはなんとかなるものです。今の日本に生きるわたしたちは、よほどの事情がない限り「飢える」ことはそう多くはありません。基本的に毎日おなかいっぱい食べていますよね。でも、人類の歴史を紐解くならば、多くの人が腹いっぱい食べることができているのはここ最近の話です。日本の中でだって、100年も遡れば「飢える」という経験を持つ人はたくさんいます。わたしたちは今、食べるものにあまり困ってはいません。「食費が上がった」と思うことはありますが「食べるものが全くない」ことが何日も続く状況にはなかなかなりませんよね。世界を見渡せば今も「飢え」が支配している地域はたくさんあります。だから人類の昔からの一番の願いは「お腹いっぱい食べること」です。食べ物がきちんとある状況があって初めて、周囲のことも考えることができるのだと思います。「衣食足りて礼節を知る」と言いますが、とにかく「食べ物」なのです。主の祈りで「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈りますが、この「今日もお与えください」という祈りは、とても切実なものなのです。

だからこそ「五千人の給食」の話が大切なのだと思います。どんな奇跡が起きたかはわからないけど、自分だけじゃなくて自分の周りの人も「お腹がいっぱい」になる。イエスさまについて行けば、そんなことが起こるかもしれない。そんな世界のためにわたしたちも少しずつ協力しようじゃないか、と思えるのです。「お腹いっぱい」というのは「幸せ」なのです。神さまは天からの恵みによって、わたしたち人類を「満たして」くれます。その恵みがあって初めて、わたしたちは外に向きます。みなさんのお腹は満たされていますか。その恵みを忘れずに、働きたいと思います。


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