自分で聞いて信じたのだ
ヨハネによる福音書 4章5~26,39~42節
大斎節も第3主日に入り、本日の福音書はイエスとサマリアの女性の対話。シカルの町の近くにあるヤコブの井戸のところで、イエスがサマリア人の女性と話します。サマリア人とは歴史的経緯もあり仲が悪く、普通は話をしないのですが、イエスにとっては関係なかったようです。イエスは女性や多くのサマリア人と話をして、彼らもまたイエスが救い主であると信じるようになっていきます。
イエスにとって「サマリア」が特別な場所ではないということはとても重要なことです。ユダヤ人にとってサマリアは決して相いれない土地と人たちであったのに、イエスにとっては関係ないわけです。例えば今、ウクライナの人たちにとってロシアは相いれない場所であり、人々であるように思います。(もちろんそうじゃない人もいるでしょうが)でも、神さまの力はウクライナにもロシアにも働くものですし、イエスにとってもどちらだって出かけていく場所であり、話をするべき場所でしょう。「神さまの力がこの地上の隅々に及ぶ」ということは、自分にとって敵であっても、神さまの力が及んでいるということになります。わたしたちは時々これを忘れてしまうことがあります。
そしてもう一つ大切なことは、サマリア人の多くが「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と言っていることです。わたしたちが信仰に入るとき、導いてくれた人がいることが多いものです。親だったり友人だったり、もしかしたら読んでいた本の著者だったり、もしかして今だったらYoutuberとかもいるのかもしれません。そうやって導かれて信仰の門をたたき、教会の仲間たちと共に信仰を育んでいきます。その過程でまた、多くの「導いてくれる人」に出会っていきます。しかしある程度の時期を過ぎると、信仰的に独り立ちし、「誰かの信仰」ではない「自分の信仰」を得ていくものです。いつまでたっても「導いてくれた人」に頼り続けるのは、あまりよくないとも言えます。とても困ったときに帰ってくるのは良いのです。しかし、わたしたちは信仰的に自分の足で歩いて行かなくてはいけません。本来、牧師も含め、宣教をする人は「自分」を伝えるのではないからですし、「自分」が伝わってしまっていることにもっと注意をしなくてはならないと思います。伝えるのは「自分」ではなく、自分を超えてその人に直接語り掛ける「神さま」です。わたしたちはそのことを大切にしながら、自分でも神様を周囲に伝えていきます。サマリアの人たちは、最初は一番初めに話した女性の言葉に導かれましたが、彼女を超えて語り掛けてくれるイエスに出会い、イエスを救い主として信じる信仰を、自分の足で歩み始めたのです。
このことが「ユダヤの国」ではなく「サマリア」で起こったということも大切です。日本で言えば東京や、北海道で言えば札幌ではなく、中心から遠く離れた場所で、そしてともすれば今まで神さまから敵対していると見なされていた場所で、先に始まったことだからです。神さまの業は、わたしたちが思いもしなかった場所にすら及ぶのです。そしてまた、わたしたちのいる「この釧路」でもまた、神さまの業は行われます。わたしたちの信仰が、「誰かの信仰」ではなく「自分の信仰」になっているのかを見つめながら、学びながら、今日を歩んでいくこと。また、わたしたち自身も、子のサマリアの女性のように誰かに信仰を伝えていく立場になっていくことが大切です。別に難しいことではありません。わたしたちの信仰は、わたしたちの普段の振る舞いによっても伝えられていきます。神さまが導いてくださることを信じて、信仰生活を粛々と続けていきたいものです。