自分で選び取る

2025年05月11日

ヨハネによる福音書 10章22~30節

 本日は復活節第4主日。福音書はヨハネからイエスがユダヤ人たちと神殿で論争する様子が読まれます。ユダヤ人たちはイエスに対して「あなたがメシアならはっきり言いなさい」と迫り、イエスは「わたしは言ったのにあなたがたは信じないではないか」と返します。

確かにイエスは多くの場で「わたしはメシアである」と言葉で、行為で示しています。しかし一方で、その場面にいた人たち、助けられた人たちはそれを信じますが、ただ見ていた人たちはなかなか確信を持つことができなかったようです。また「メシアはベツレヘムで生まれるはずだ」とか「ガリラヤ出身ではない」という聖書の言葉もある通り、ガリラヤから活動を始めたイエスのことは、出自がどこにあるかも含めてなかなか認めるわけにはいかなかったのでしょう。そして、これは大事なことだと思いますが、イエスにとって、そういった人々を「認めされる」ために手間をかけるよりも何よりも、今困っている人たちのところへ行くほうが大切だったのです。だから信じようとしない人たちとはどんどんすれ違っていくことになりました。

「いつまでわたしたちに気をもませるのか。もしメシアならば、はっきりそう言いなさい」とユダヤ人たちはイエスに迫ります。すぐに白黒はっきりさせたい、そのほうがすっきりするという気持ちはわかります。しかし世の中のことは、白黒はっきり分かれていることのほうが少ないのです。わたしたちの気持ち自体も「あっちがいいか、こっちがいいか」と揺らいでいたりするものですし、その時によっている場を変えることもあります。だからこそ、わたしたちはいろいろなことを保留して、グレーのまま、曖昧な状態にしていることも結構あるのではないかと思います。

そんな時に大切なのが「自分がどう考えているか」です。もし自分がイエスのことを「メシアだ」と思うのならそれでいいし、自分がそう思わないのなら離れればよいのです。ユダヤ人たちはそこで「自分がどう思うか」ということよりも「相手がどう言っているのか」を基準にしようとしてしまいました。本来、信じるか信じないかは自分の問題です。だから相手がどうであろうが信じる、逆に相手がどうであろうが信じない、となるはずです。本来自分で選び取るべきものが、相手任せになってしまっている、イエスはそのことを指摘しました。「わたしは言ったが、あなたがたは信じない」。つまり、イエスが何と言おうが彼らは信じる意思がないではないか、ということです。自分で「信じない」と決めて離れていくのならそれでいいのです。しかし「信じさせてください」と言って近くに居続けるのは少し変です。自分の気持ちの主導権を他人に握らせた状態というのはあまり健全とは言えないでしょう。何事もそうですが、自分の頭で考えて、自分で選び取っていくのが大切です。そして、それで起きたことは自分の責任としてとらえるものです。本来「信仰」というものは、自分で選んでいくものなのです。

わたしたちは洗礼式の時「信じます」と答えています。そうやって「答えた」ということが重要で、とりあえずまず「選んだ」のです。もちろんその後、いくらでも揺らぐことはあるでしょう。それはそれでいいのです。選んだ後も揺らぎ続けるというのはよくあることで、イエスも決してそれを攻めたりはしません。相手に白黒はっきりするように要求するのではなくて、自分が白黒はっきりさせることの方が大切です。自分が「信じる」のであり、神さまやイエスさまや、ましてや牧師に「信じさせてもらう」ものではありません。わたしたちはとりあえず、この道を選んでいます。そしてそうであるのなら、その選んだ道を、いくらでも行きつ戻りつしながら、揺らぎながら歩むだけです。


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