良い羊飼いの後を追って
ヨハネによる福音書 10章11~16節
本日は復活節第4主日。福音書はヨハネから「良い羊飼い」のたとえが読まれます。良い羊飼いは羊のために命を捨てるが、雇い人は狼が来ると羊を置き去りにして逃げ去る、と「良い羊飼い」と「雇い人の羊飼い」の様子が対比されています。そしてイエスは自分のことを「良い羊飼い」であるから、羊のために命を捨てるのだ、と語っているのです。
聖書によく登場する動物はやはり「羊」であろうかと思います。ユダヤ人はもともと農耕ではなく牧畜を生業としていたので「羊」や「やぎ」「牛」などの家畜が身近だったのでしょう。だからイエスのたとえ話にもよく「羊」が登場します。みなさん、身近に「羊」や「やぎ」「牛」がいますか。「毎日触れるところにいる」という人は、実家が牧場だとか、牧場で働いているという人でもない限り、なかなかいないでしょう。それでも、東京などの都会よりは「羊」や「やぎ」「牛」などが身近にいる可能性があるのかなと思います。でもまぁ、わたしたちは都市に住んでいるので、多少は近いけれども、すぐに触れられて、その生態がよくわかっている、というにはほど遠いのではないかと思います。だから、聖書にある動物の出てくる「たとえ」などを読むときは、少し注意深く読む必要があります。当時イエスの話を聞いた人たちにはわかりやすかったのかもしれませんが、今の都会に生きるわたしたちにはちょっと難しいこともある、と思いながら読むのと、「人間なんてたいして変わらない」「動物のことなんてわかってる」と思って読むのとでは、響いてくるものが結構違うのです。実際わたしも、短期間ですが羊とヤギの世話をした経験、牛の牧場でお手伝いした経験があるからちょっとだけ、「思ってたのと違う」ことがあるのを理解しましたが、そうやって見なかったら多分よくわからないままみなさんにお話しして、かえってよくないことになっちゃってたかなぁと思うことがあります。
羊は、ここでイエスが言っているように、「自分のことを世話してくれる存在」を認識していますし、その声を聞き分けることもできます。そして、その相手によって結構態度を変えます。猫でも犬でもそうですが、動物って「自分を世話する人」がわかっているんですよね。そして相手によって態度を使い分けたりもします。「良い羊飼い」であれ「雇い人」であれ、羊の群れを率いて世話できるのって、ある程度のスキルと、羊との信頼関係がないと難しいものです。自分も世話をし始めた最初のころは、まったくいうことを聞いてくれなくて苦労した覚えがあります。スキルも信頼関係がありませんからね。「羊は従順」なんて言いますが、とんでもない話でした。だからこそ、イエスという良い羊飼いに導かれる必要がある、ということでもあるのだろうと思います。
わたしたちという羊も、別に生来従順なわけではありません。わからないこともたくさんあるし、神さまのほうを向こうと思っても全然違うことをしていることもしばしばです。なにより、目の前の草しか見ていない羊みたいに、そこで羊飼いが指示している事にすら気が付かないこともあります。でも、イエスという「良い羊飼い」が導いてくださるからこそわたしたちは神さまのほうを向くことができます。イエスさまの声は、わたしたちにははっきりと聞き取れないかもしれません。だからこそこの「聖書」という声をよく聞こうとして、日々触れることが大切です。そして「祈り」によって、神さまの声を聴く姿勢を作ることも大切です。そしてイエスだったらどうするのかなと考えながら、普段の生活を送ることも大切です。わたしたちはなかなか「良い羊」にはなれそうにありませんが、「良い羊飼い」の後を追うことを忘れずにいたいものです。