言葉の受肉

2022年12月25日

ヨハネによる福音書 1章1~14節

 クリスマスおめでとうございます。今日の福音書はヨハネによる福音書の冒頭の部分が読まれました。この部分は創世記の記述に似せながら、「言」の受肉という表現を使って、イエスについて記している箇所です。

 イエスのことを「言」(ことば)と表現しているのですが、普通「言」ではなく「言葉」ですよね。耳で聞いていると同じに聞こえるのですが、このように文字で表現していることには深い意味があるのです。それは、わたしたちが普通に使うのは「言葉」ですが、神さまが使うのが「言」ということです。

 創世記によれば世界は「言」によって始まっています。すなわち神の発する「光あれ」という「創造の言」によって次々と世界が形作られていったということです。そして世界と共にすべての生き物たちも神によって創られた。少なくとも「わたしたち人間の力の及ぶところではない」ということです。「神」は他にも言葉として表現されています。預言者エリヤがアハブ王から逃れてホレブに逃れた時、風や地震、火の中にも主はおられず、ただ「かすかにささやく声」としておられたことが列王記に記されています。神のみ業は「言」として、人々の中に顕現しました。その集大成がイエスなのです。

 イエスの起こした奇跡のうちの多くが、彼の行為ではなく「言葉」によっています。「清くなれ」と言えば清くなり、「床をかついで歩け」と言えば歩き出す。「この子は眠っているだけだ」と言えば起き上がります。これが「神の言葉」=「言」でなくてなんでしょうか。だからこそヨハネによる福音書はイエスのことを「言」と表現するのです。「神の言葉」は実現されるものだということです。

 そして、その「言」が受肉、すなわち人としてこの世に来たお祝いが今日のクリスマスです。わたしたちはイエスを「神の言葉」であり、自分にとっての「救い主」であると信じているからこそこの日をお祝いします。

 しかし一方で、わたしたちの使う「言葉」はなかなか実現することがありません。世界中で「平和」について人々が声をあげていますが、2月に始まったロシアのウクライナ侵攻は終結しません。学校で「イジメ、ダメ、ゼッタイ」と言ってもいじめはなくなる気配がありません。様々な犯罪も「それが悪いこと」という認識はあるはずなのですが、なかなかなくなりません。わたしたちの発する言葉に対して空しさすら感じてしまいそうです。しかし一方で、局所的かもしれませんが、小さな平和や正義が実現することもあります。わたしたちにできることは、自分たちの周りに小さな平和や小さな正義を実現していくことです。そう決めて、言葉に出して、それを実行していくことです。

 本来「言葉」の持つ力は強いのです。もともとは「言」、すなわち「神の言葉」から始まっているからです。しかし今、わたしたちの周りには空しい言葉があふれています。わたしたちは100%とはいかなくても、自分から発した言葉を実現していくことができるなら、「言葉」は本来の力を取り戻していくでしょう。いきなり大きなことができるわけはありません。でも、小さな事ならできるでしょう。このクリスマスから、自分の小さな言葉を実現することを始めてみませんか。自分の周りに小さな平和や正義をもたらすことを始めてみませんか。いざしようと思うと結構難しいんですけど、なんとかもがきながらでも、ちょっとだけでもやってみましょう。そのためにイエスさまはこの世に来られました。「神の言葉」がわたしたち一人一人に力を貸してくれます。わたしたちのところに着てくださったイエスさまと共に、新しい年を進んでいきましょう。


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