読者は悟れ
マルコによる福音書 13章14~23節
本日の福音書はマルコから、イエスが大きな苦難、終末について語った場面が読まれました。「荒廃をもたらす憎むべき者が立ってはならない場所に立つのを見たら」と始まりますが、この言葉だけでたくさんの解釈ができそうですよね。実際、オカルト系の雑誌などでは聖書の言葉をいろいろな現実の言葉に当てはめて「今こそ世界が滅びるのだ」と解釈することがよくあります。なかなかおもしろいので時々見ていますが、時々もっともらしく感じて、うっかり信じてしまいそうになります。実際のところ1999年も、2012年も世界が滅びることはありませんでしたが、こうやって聖書は利用されることもあるんだなと思いました。
実際にイエスがこの言葉を言ったとしても、それがその当時に何を指していたのかはよくわかりません。さらにこの後に続く「読者は悟れ」という言葉は、明らかに後世に挿入された「注」です。少なくともイエスは、自分の言葉が書き残されるという想定をせずに語っていたはずです。最初のキリスト者たちも「イエスのことを言葉によって伝える」「経験を話す」ことはしましたが、別に書き残そうとはしていなかったのです。イエスが天に帰った後、イエスに直接会った人たちも高齢になってから、文書として残されるようになりました。だから「読者」と言い出したのは後世の誰かだと言えます。そしてまだ、その頃だったらイエスの考えていた状況が読み取れたのかもしれませんね。正解が残されていない以上、わたしたちは想像するしかありませんが、イエスが誰のことを、なんのことを想定していたのかわからないということは「わたしたちはあれこれ考え過ぎないほうがよい」ということだと思います。
わたしたちは聖書に向き合うとき「わからない」ことがたくさんあります。人間はそんなに変わっていないと思いますが、聖書の言葉は、単純にわたしたちの今の生活に当てはめられるものではありません。少なくとも人々の生活や社会状況はものすごく変化しています。だからこそ聖書が「何を伝えたいのか」、イエスの言いたかったことの「本質」は何かということを考えなければ読まなくてはいけません。「読者は悟れ」と言われたとき、ぱっと「これは未来のことを言っているんだな」と想像してしまいがちですが、イエスから見た未来って、わたしたちにとっては過去の可能性もありますし、もっと未来の可能性もあります。今、わたしたちが生きているときだとは限らないのです。もしかしたら全然意味のない話だったという可能性だってあるのです。下手に想像して決めつけるよりも「わからない」と思っているほうが健全だとわたしは思います。
わからないことを考えるとき、想像力を働かせすぎると疑心暗鬼に陥ります。「杞憂」という故事がありますが、心配し過ぎて眠れなくなってしまっては、生活することもままならなくなります。わたしたちの世界はむしろ、わたしたちの想像をはるかに超えた力で動いており「想定内に収まることのほうが少ない」と思っていたほうが精神衛生上楽なのではないかと思っています。聖書には、今日の福音書の箇所のように、未来のことだと思えるような箇所が含まれていますが、あれこれ考えるよりもむしろ「惑わされないようにしなさい」というここでの一番大事なメッセージを読み取り、日々の生活を過ごすほうが良いのです。
わたしたちはついつい考え過ぎてしまいます。時に考えることも必要ですが「わからないことはわからない」と、いったん保留にして前に進む力も必要です。難しいことを一生懸命考えるよりも、日々の生活を、そして目の前で出会う人々と過ごすことを大切に、歩みを続けましょう。