誰のところへ行きましょう
ヨハネによる福音書 6章53~59節
本日の福音書は先週までのイエスの話の後の弟子たちの反応からスタートします。なんとイエスの「刺激的な言葉」によって多くの弟子たちが離れ去ったと記されているのです。しかし十二人の使徒たちは「あなたがたも去ろうとするのか」というイエスの言葉に対して「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょう」と言って残ります。
みなさん、何かに興味を持った時、どのようにしていますか。例えばそうですね、ある楽器に興味を持ったとして、情報を集めますよね。本を読んでみたり、やったことある人を探して聞いてみたり、今だったらインターネットで動画を探しますかね。そうやってやれそうだなと思ったら、独学するのか、それともどこかで習うのかを考えて、またスクールの評判を聞いたり調べたり、と、こんな感じで興味を持ったことに向かっていくのではないかと思います。そこで「やっぱり違うな」とか「自分には難しいかな」と思ったらやめる、となるでしょうか。もちろん「これだ」と思って、ずっとやっていたらすごく上手くなった、なんて話もありそうですね。
教会のこと、キリスト教のこと、聖書のこともそうですね。イエスさまに興味を持って、たくさんの人が聖書を手に取ってみたり、教会に足を運んでみたり、本を読んでみたり、動画を見てみたりするわけです。でも一方で、「ちょっと合わないかな」と思ったり、難しくなったりで、離れる人たちもまた多いのです。あと、よくあるのが教会の人間関係でしんどくなるケースですね。実際自分なんかはずっと中にいるので、クリスチャンにみんな夢見過ぎだなと思ったりするんです。「クリスチャンはイエスさまの教えを守る素晴らしい人たち」と思ってると、ホントに足元掬われますからね。実際は「イエスさまの教えを守ろうとしている素晴らしい人たち」です。「守る」のではなく「守ろうとしている」ので、できるかどうかはわかりませんよ、ということなんですけどね。教会は人と人との集まりなので、信仰とは別のところに難しさがあったりするんですよね。実のところ、信仰するだけで人格が矯正されてちゃんとした人になれるような宗教なんてホラーです。どっちかというとマインドコントロールの類なんじゃないかと思ってしまいます。もちろんちゃんとした人たちもいっぱいいますよ、と言っておきます。
実は信仰の中で「わたしたちは誰のところに行きましょう」と答えられるってすごいことだなぁと思うのです。それだけイエスのことを信じているからですね。でも、わたしたちが安心していいと思うのは、こう答えた弟子たちも、イエスが十字架につけられたときに逃げ出しているのです。使徒たちですらこうなのですから、わたしたちがちょっと逃げ腰になったとしても、主は決して失望したりしません。そして放蕩息子の例えにもある通り、主は一度去っていったとしても暖かく何度も迎え入れてくれるのです。だからこそ、物理的には厳しい時代になりましたが、「教会の扉はいつも開かれている」と言われているのです。
イエスのもとにはたくさんの人たちがやってきます。でも、全員が全員、そこにとどまるわけではありません。そしてまた、戻ってくる人もいるのです。イエスは、神さまは、時に刺激的な言葉でわたしたちに教えます。時にそれはとても受け入れがたくわたしたちに響きます。だからこそ、わたしたちは学びます。そしていいんです。「去りたい」という思いがあっても、そうしたとしても。戻ってくるとしたら、主は暖かく迎えてくれます。その場所をなくさないため、わたしたちはここに立ち続けています。「誰のところへ行きましょう」と言いながら立ち続けていきましょう。