隠さずに使う
マタイによる福音書 25章14~15,19~29節
本日の福音書は「タラントン」のたとえ。有名なお話です。主人がしもべたちに、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出ます。返ってきたとき、それぞれ5タラントン+5タラントン、2タラントン+2タラントンを差し出しますが、1タラントンを預かったしもべは怖くなってそれを隠しておき、そのことで主人に叱責されるという流れになっています。
タラントンというのは大金です。しもべたちにとっては夢想だにしない金額です。だから隠しておきたくなるのもわかる気がしますし、マイナスにならなきゃいいじゃないかと思う気持ちもよくわかります。減って、無くなってしまうのは怖いですよね。だからこの話を読むと、叱責されるものでもないんじゃないか、少し理不尽じゃないかと思うことがあります。むしろ5タラントンや2タラントンを使うことのできたしもべの大胆さに驚く方が強くて、この使わなかったしもべは悪くないんじゃないかなと思ってしまいます。しかし、主人はこのしもべを叱責し、預けた1タラントンまで取り上げてしまいます。普通にお金の問題だと考えていると、わけがわかりません。
「タラントン」というのは、現代の貨幣価値に直すとおよそ1億円です。ポンと渡されるには途方もない金額ですよね。ですからこれは「お金そのもの」ではなく、「主人」=「神さま」から「しもべ」=「人間」に与えられている「途方もない価値のもの」ということになります。わたしたちが神さまから与えられている「途方もない価値のもの」ってなんでしょう。別に神さまはお金をくれませんし、食べ物を与えてくれるわけではありません。かみさまがわたしたちに与えてくれているもので一番価値のあるもの、それは「いのち」であるように思います。誰もが必ず一つ持っていて、そして「使う」ことができるものです。そしてそうであるなら、そう簡単に、それこそわたしたちが丸ごと手放さない限り無くなることはありません。だからこそ5タラントン預かったしもべも、大胆に使うことができたのではないでしょうか。
さらに考えを進めてみましょう。それでは「いのち」を使う、というのはどういうことでしょうか。「使う」という言い方がちょっと悪いかもしれませんが、この場合の「いのち」を「使う」というのは、わたしたちが「生きる」ことです。決して、誰かのために「いのち」を使いつくすことではありませんし、ましてや丸ごと放り出すことでもないのです。わたしたちが「生きる」とき、周囲の人々と関わらずに生きていくことはできません。だからわたしたちは、その人たちとともに、互いに働きかけあいながら生きていきます。そのようにしてわたしたちが互いにいのちを使いあうことが、この「タラントン」のたとえに示されたことなのだと思います。
英語で「才能」のことを「タレント」と言います。この「タラントン」のたとえからきているのですが、「才能」という言葉を聞くと、なんとなくものすごいことのように思うかもしれません。例えばスポーツ選手や芸能人のように。しかしそうではなくて、本来ここで想定されている「タレント」は人が生きていれば誰でも持っているもの「いのち」の使い方のように思います。どんなにすごい才能があったとしても、それを自分のためだけに使っているのなら「隠していたしもべ」と同じです。「タラントン」は自分以外の誰かと一緒に、自分以外の誰かのために使うことで、増やすことができるものです。だからこそ、ほんのちょっとのことでいいのです。わたしたちの「いのち」を自分以外の誰かのために、自分以外の誰かとともに使うことができれば、少しだけでも「タラントン」は増えていくでしょう。そうやって互いに大切にしあうことで、世界は神の国に向かっていくのです。