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2026年03月08日

ヨハネによる福音書 4章5~26,39~42節

 今日は大斎節第3主日。福音書はヨハネからサマリアの井戸での話。疲れてヤコブの井戸のところで休んでいるイエスのところにサマリア人の女性がやってきて、イエスと問答します。そして、多くの人がその女性の話を聞いてイエスを信じるようになる、という流れです。最後に、イエスを信じるようになったサマリアの人々は、その女性に対して「もうあなたが話してくれたからではなく、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからである」と言います。

 みなさんが最初に教会に足を運んだ時、どんな理由だったか覚えておられるでしょうか。友人に連れられてきた人もいれば、面白そうだと思って自分で来た人もいるでしょう。自分の両親が教会に通っていたので物心ついたときから来ているという人もいるし、かつて幼稚園や小学校などで聖書に触れたことを思い出したという人もいるでしょう。本当にいろいろあるし、別にどんな理由だったとしても、「今」教会に集っているということが大切です。多くの場合、「誰か」によって影響されて教会に来ることになっているのだと思います。純粋に自分で調べて、考えて、教会の門をたたくという人はあまり多くありません。「友人」に誘われるというパターンはよくありますし、「家族」によって連れて来られているというパターンも多いでしょう。すでにイエスに出会った誰かが、今日のこのサマリアの女性が町の人たちに声をかけたように、自分の周囲に声をかけて導かれる、という構図です。

 しかし一方で、「ただ誘われて来た」というだけだと、なかなか続きません。最初はよくわからず礼拝に参加しているだけでもいいのです。でも、いつかどこかで「自分で知る」ようになっていきます。「子どものときから教会に来ている」という人でも、いつの頃からか「自分で選んで来ている」に変わってきているはずです。最初は「○○さんに誘われて来ていた」。いつの間にかその「○○さん」がいなくなってしまったけど、変わらず来ている、という人もいるでしょう。どこかで「自分で知るようになる」ことがないと、なかなかそのように変わることはありません。遠巻きにしている群衆ではなく、聖書に出てくる「イエスに話しかけた人」のように「イエスに出会う」ことが大切になってくるのです。

 わたしたちがイエスに出会う方法はたくさんあり、誰もが同じわけではありません。だから、どんな出会い方をしてもよいのです。しかし大事なのは出会った後「自分で知るようになるかどうか」ということです。子どもは最初「○○ってなに」「どうやってやるの」と尋ねるものです。最初はそれでいいのですが、徐々に自分で調べて、それでもわからないところを質問するようになってこないと、様々なものが一向に身に付きません。教会の信仰もそれと同じようなものです。教会にはたくさん学ぶものがあります。別にすべてに詳しくならなくても良いのですが、自分が好きなこと、興味を持てることだけでも少し自分から調べてみると、信仰がより深くなってきます。サマリアの町の人々も、最初はこの女性に言われて来てみただけですが、自分であれこれイエスに尋ねて聞き、イエスを知って信じるようになりました。ただ与えられるだけでなく、自分で学んでみることが大切です。もちろん別に「難しいことをしろ」と言っているわけではありません。大斎節のような時期に、信仰的な本に目を留めてみることでもいいですし、なんなら祈祷書の普段使っていない部分を見てみることでもいいのです。教会での黙想を大事にしてもいいし、地域や教会への奉仕をしてみることでもいいのです。そうやって、多くのことを「神さまのため」に行うようになることで、わたしたちの信仰は深められていくのです。


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