後ろを振り返りつつも

2025年06月29日

ヨハネによる福音書 9章18~24節

 本日の福音書はイエス一行がエルサレムに向かう旅路の始まり、最初はガリラヤからサマリア人の血を通ってエルサレムに向かおうとしますが、歓迎されないのでヤコブとヨハネの兄弟が「この街を滅ぼしましょうか」という場面と、イエスが「弟子の覚悟」について語る場面です。

 そもそも論として、本来の「イエスの弟子」は覚悟が必要なものです。イエスの弟子=使徒たちはヨハネを除いて殉教しますし、ローマ帝国の国教に指定されるまでは迫害によって死ぬこともあった信仰です。どう考えても生半可な覚悟で表明する信仰ではありませんよね。また、キリスト教が伝わる過程で、地域によっては迫害されることもあり、やはり「覚悟」が求められることがなかったわけではありません。もちろん現代では「あからさまな迫害」をされることはないですが、場所によっては「変わった人」扱いをされることはありえます。

 わたしたちは教会の交わりを「こういうものだ」とわかっていて、洗礼を受けているから、そんなに葛藤もなく教会に足を運んでいます。でも実際、現代でも、いや今の日本だからこそかもしれませんが「教会に足を運ぶ」というのは意外とハードルが高いものです。「もっとカジュアルに教会をのぞいてくれればいいなぁ」と思うのですが、なかなかそうはいかないものです。そしてわたしたちにとっても「教会に足を運ぶ」ことには葛藤が無くても「自分が教会に行っていると誰かに伝える」とか「イエスさまの教えだからと行動して表明すること」ということになると、ちょっと迷いがあることも多いのではないでしょうか。残念ですがこういうことを表明すると、変な目で見てくる人はたくさんいますし「外のレストランで食事をするときにお祈りをするかどうか」で迷ったりすることもあります。また「わたしは牧師です」と伝えることも慎重になったりします。何度となく「え、宗教関係者ですか」と引かれたことがありますし、急に攻撃的になった人もいたので、ちょっと怖いというのが正直なところです。病院に訪問に行ったとき、一緒にお祈りした後、実際に「あの人の宗教が怖いから部屋を変えてください」と言われて部屋を変わったんだ、と伝えられ、申し訳なくなったこともあります。外の目は思ったよりきついこともある、ということです。こういうことって目を逸らしがちですが、わたしたちがイエスさまのことを人に伝えようと思うのなら、少しはわかっていないといけないことだと思っています。そして、それを理由に迷うことがあってもよいのだとわたしは思っています。

 イエスに声をかけられた人たちが全員「はい、ついていきます」と使徒たちのようにすぐに答えられたら良いのでしょう。でも、世界はそうなってはいません。そしてまた多くの人が「わたしはイエスさまを信じています」と大手を振って宣言できるというわけでもありません。理想を言えば、イエスの言う通り後を振り返らないでついていくことができるのがいいのだと思います。でもそうできないわたしたちはどうすればいいのでしょうか。

 そんなとき、わたしたちはまず「わたしたちの信仰を強めてください」と祈ることです。こうやって神さまに頼った時、わたしたちの心は少し神さまに向きます。イエスが言っているのは「これができないのならキリスト者ではない」という、破門の宣言などではなく、「こういう理想に向かって、ついてきなさい」ということです。そしてその時に差し伸べた手を、主は降ろしません。わたしたちに向かって、手を差し伸べ続けているのです。そんなイエスさまの姿を見つめながら、時に後ろを振り返ってしまうかもしれませんが、何度でも見つめなおして、道を進んでいきたいと願っています。


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