主に従う厳しさ
ルカによる福音書 14章25~33節
本日の福音書はイエスがついてきた群衆に教える場面。「自分の家族を憎まないものはわたしの弟子ではない」「自分の十字架を負ってわたしに付いてくるものでなければ、わたしの弟子ではありえない」「自分の財産をことごとく捨て去るものでなければ、あなたがたのうち誰一人としてわたしの弟子ではありえない」、と厳しい言葉が続きます。この言葉を聞くと、この厳しさによってイエスが何を伝えたかったのか本当によくわからなくなってしまいます。
教会に通う、キリスト者であるというのは時に厳しいものです。好奇の目にさらされることもありますし、自分の家族から理解されないということもあります。歴史的に見れば、特に教会の最初のころは迫害も激しく行われていました。日本でだって禁教令下の信仰は厳しいものがあったことが知られています。ですから信仰を持つことが、必ずしも自分にとってよいことにならなかったりすることもあるし、かえって厳しい状況に追い込まれてしまうこともありえるのです。だから時によって教会は恨まれます。こんなひどい状況になるはずはなかったと言われてしまうこともあります。だからこそわたしたちは「信仰は決して楽なものだけではない」ことを再確認しておくことも必要だと思うのです。塔を建てるものが計算して決断するように、王が戦争に際して相手の力を調べてから決断するように、わたしたちもまた、この「信仰」は続けられるのだろうかと、時に自分自身に問いかけてもいいのかもしれません。なぜなら、「信仰」の道というのは「楽なもの」だけではなく、「大変なこと」、時にかなり重い対価を払わなくてはならないことがあるかもしれないからです。
「憎め」「捨てろ」とイエスは言いますが、これは本当に文字通りの意味なのかを考える必要があるでしょう。なぜなら、わたしたちはキリスト者として生きるとき、自然と今まで自分が持っていた考え方が変わってくるからです。つまり、なかなか難しいことですが、わたしたちの生きる生き方と、生きているこの世界を、今まで自分が持っていた価値観と違う価値観、すなわち「福音」、つまり「神さま」を通して見直すことがどうしても必要になってくるからです。そうすると「家族」だったり「財産」だったりに対する見方も変わってきます。それが「憎め」「捨てされ」と言うことであるのだと思います。今までのやり方に背を向けて、新しい形で自分の周りにいるものと向き合うことが、信仰が成熟してくるにつれ、できるようになっていくでしょう。ですから、ちょっと厳しいこのイエスの言葉も、恐れる必要はないのだと思います。望むと望まざるとに関わらず、わたしたちが信仰の道を歩むのであれば、わたしたちは変えられていきます。そしてそれは、自分が思っている方向ではないかもしれないのです。それもわたしたちが考えなくてはならない「対価」なのだと思います。それを自分の「十字架」と呼ぶのです。
そして何より大切なのは、わたしたちがそうやって進むことを決断するとき、イエスは共に歩いてくれるということです。イエスはただ問いを突き付けて終わる方ではありません。インマヌエル=神は人と共にいます、という名の通り、人と共にいて、その歩みを支えてくれる方です。主に信頼して歩むことで、わたしたちは変わっていきます。時に厳しいところを通り抜けなくてはならなかったとしても、主は共にいてくださるのです。確かに、キリスト者として生きることは決して楽な道ではないけれども、「それでも」「わたしが」「選んだ」ことを大切に、これからも信仰の道を歩み続けていきましょう。その道は確かに、天の国に続いているのです。そして主が共に歩まれていることを信じて、共にまいりましょう。
