「神」に仕える
ルカによる福音書 16章1~13節
本日の福音書は「不正な管理人のたとえ」。先週の「無くしたものが見つけられる」3つのたとえに引き続いて、弟子たちに対してイエスが語ったものです。「不正の富で友達を作りなさい」「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とイエスはまとめています。
ここでイエスは「富」をあまりいいものとして扱ってはいません。イエスの時代は今よりも貧富の差が激しく、日本で言う庶民層はほぼおらず、少数の大金持ちと大多数の貧民、という社会構造でした。さらに大金持ちたちが理不尽に人々から奪っていく様子はそこかしこで見ることができるのですから「富」=「不正」に思っても不思議ではありませんね。とは言っても、庶民であっても「富」の一部を所有することはあるわけで、むしろほとんど持っていないからこそ「自分のものである」ことにこだわってしまう、というのはよくあることです。手放すことに不安があれば、守ろうとして閉じこもってしまったり、周囲と関係を切ってしまったりすることもあるでしょう。だからこそイエスは「不正の富で友達を作りなさい」と人々に伝えます。持っているだけでなく、分かち合うことが、多くの人と共に生きるために大切なのだと説くのです。自分が何かの拍子に偶然手に入れた「富」があった時、自分だけで消費するのではなく、周囲の人に分かち合うことも、消費するときの選択肢に入れておきなさい、ということです。
「ごく小さなものに忠実な者は、大きなことにも忠実である」とイエスは言います。「富」が「不正」であれば、いい加減に扱ってもいいのだ、と単純に思ってしまうかもしれません。最近のニュースで「悪い奴」であれば「いくら乱暴に扱ってもいい」と思っているのだろうかと思わせるような出来事がたくさんあります。でも、そうではなくて、そのような相手に対しても、不正なものだとしても大事にしておこう、というのは大切なことです。わたしたちの生活もそうですよね。わたしたちは王女殿下にお会いして、本を執筆して、一国の政治を改革して、戦争を終わらせたりするような生活を送ってはいません。仕事をして、買い物に行って、子どもと遊んで、掃除や洗濯をして、猫にエサをあげたりする、というのがありそうな毎日です。こう考えていくと「大きなこと」に対しては細心の注意を払って準備をしたりするのに、普段の小さな出来事に対しては無頓着になりやすいものです。わたしたちの生活は、一見したところ小さな出来事に思えることの連続から成り立っており、その中にごくたまに大きな出来事がくるものだ、ということをイエスは思い出させています。だからこそ、「小さな普段のこと」にきちんと目を向けることが大切なのだということです。
「忠実に扱う」ことは「大事にしまい込んでおく」ということではありません。それは「神の国にふさわしいやり方」で扱うということです。たとえ1円や10円であっても、神の国のために使うことはできます。神の国とは、多くの人が分かち合いながら共に生きる国のことです。わたしたちの目の前にある小さな「富」を「神の国にふさわしく」扱うことができたとき、わたしたちの今の社会は徐々に変化していくでしょう。多分ものすごくゆっくりだけれども、そう思います。
「富」には、誰もが目を引かれます。「ああ、こんなものが手に入ったらいいな」と思います。そして、それを永遠に自分の手元に留めておきたくなります。もちろん、それは「悪い」ことではありません。そういうものだからです。ただし「留める」ことだけを繰り返すなら「富」に仕えることになってしまいます。その「富」を人のために分かち合い、役立てることをイエスは勧めています。それが「神」に仕えることにつながります。多くの人と共に生きるようになりたいものです。
