もうすでにある
ルカによる福音書 16章19~31節
本日の福音書は「金持ちとラザロ」のたとえ。金持ちがぜいたくをして暮らす一方で、家の門前にいた貧しいラザロ。死後、ラザロはアブラハムのところにいる一方で、金持ちは陰府でさいなまれています。金持ちはアブラハムにラザロを自分のところに遣わしてくれるように頼みますが、「深い淵がある」とアブラハムに言われてしまいます。そこで、せめて自分の兄弟たちに警告してほしいと願いますが、こちらも「モーセと預言者」がいるではないかと断られます。金持ちは食い下がるのですが「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言われてしまいます。
生前のラザロと金持ちの間には大きな隔たりがありました。金持ちは毎日派手な生活を楽しんでいたと言いますから、おそらくラザロのことに気がついてはいなかったでしょう。もしかしたら気が付いていたけど無視をしていたのかもしれませんね。そして死後、その立場は逆転しますが、その間には深い淵があり、越えていくことができなくなってしまっていました。金持ちはラザロが遣わされるようにアブラハムに頼みますが、こちらも断られてしまいます。
確かに、ユダヤの人々にはモーセと預言者、つまり聖書(この場合はヘブライ語聖書)が既にあります。読むようにと言われていますが、なかなか開くことがなかったり、聞いてはいても自分事としてとらえることができなかったりします。でも、確かに生きている限りは開いたり、自分事としてとらえたりすることができるのですが、死んでいる状態ではどうすることもできません。同じように生前にあった金持ちとラザロの間にある「へだたり」は、実は越えていくことができるものです。門のところまで行き、話しかければよいのです。でも「聖書を開くこと」や「自分の周囲にいる、困っている人たちに声をかけること」って簡単なようでなかなかできないことかもしれません。それにはまず「気づく」ことが必要だからです。気づかなければ声をかけることはできません。「知らなかった」と言ってしまえばそれまでなのですが、
アブラハムの最後の言葉は、わたしたちにも重く響いてきます。「モーセと預言者に耳を傾けないならば(聖書をよく読んでいなければ)、たとえイエスが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と読み替えることができるからです。そしてさらに言うのであれば、わたしたちにも聖書が与えられていますが、その呼びかけに耳を傾け、自分の周りの嘆きに耳を澄ますことがないのなら、どんな奇跡が起ころうと信じて方向転換することはできないだろう、ということになります。そう、わたしたちが自分を神さまの方に向いて生きるようにするための材料は「もうすでにある」のです。
北海道教区で出された「北の大地からのよびかけ」に「神さまから恵みと力をいただいて、聖書に学び、祈ることからすべてをはじめます」「日常生活を福音の光で照らし、世界と自分を見つめます」という言葉があります。いきなり様々なことに気が付くことはできないかもしれないけれども、わたしたちが聖書を読みなおし、祈り続けることで、だんだん気が付くことができるようになるでしょう。もし気がついたら、少しだけ一歩踏み出してほしいと思います。もちろん、できることだけでよいのです。わたしたちが神さまのほうに向くための材料は「もうすでにある」ということを忘れずに、これからも日々の歩みを続けていきましょう。神さまは必ず、わたしたちを支えてくれます。そのことを忘れないでいましょう。
