やるべきことをやる
ルカによる福音書 17章5~10節
本日の福音書は「からし種」のたとえと「食事の用意をする僕」のたとえ。イエスが弟子たちに「信仰を増してください」と言われたときにしたたとえです。「からし種」は種の中でも小さな種ですが、そのくらいでも信仰があれば、桑の木に無茶な命令を出しても言うことを聞く、とイエスは言います。そして「僕」は自分の役割を果たすのが当然で、それは「必ず感謝されなくてはならない」というものではなく、むしろ僕であるなら「すべきことをしたにすぎません」と言いなさい、というのです。これはなかなか厳しい言い方だと思います。なぜなら人はどうしても、称賛されることを求めますし、そのつもりがなかったとしても褒められれば喜ぶのが普通のことだからです。
「人にはそれぞれの役割がある」と一般的には考えられています。現代において、様々なものが「分業」することで大きなことを成し遂げています。例えば「自動車を作る」時、全部一から、それこそねじ一本から材料を調達したり作ったりして始める人はいません。工場で組み立てます。工場も、それぞれのパーツを作る工場が別にあり、組み立てるのはまた別の工場だったりします。多くの人が細かく仕事を「分けて」様々なもの効率的に、大量にを作り出しているのです。しかし一方でわたしたちの仕事は本当に細かく細分化されていて、自分のしていることがいったい何を作る仕事のどの工程に位置しているのかわかりにくくなってしまっています。物を作るだけでなく、人の世話をする仕事も結構細かく分担されています。例えば介護の仕事でも、計画を作る人がいて、介護される人と喋って状況を調べる人がいて、採決だったら看護士が、入浴だったら専門の介護士が、移動するのだったら運転手と添乗員が、それ以外にも医者など、いろいろな立場の人が関わって、ようやく一人の人の介護を行っています。施設入所でもその人に関わる介護士は一人ではなく、何人もが入れ代わり立ち代わりやってきます。こういった仕事も、いったい「その人」のどんな状況のために、どんな不便のために介護が必要なのか、何のために関わっているのかがわからなくなってしまいます。でも、こうすることで効率よく、たくさんの人にたくさんのものを、たくさんの人にサービスを提供することができるのは確かにそうなのです。でも一方で、この「分業」社会は、「分断」社会でもあります。目の前にあるものや仕事に対して、自分がどんな位置にいるのか、目の前の人に対して、自分がどんな位置にいるのかがわからなくて、自分の役割に対して「すべきことをしたにすぎません」と言うことすら難しくなっています。というよりも自分の「すべきこと」が何なのかもよくわからなくなってしまうことが多いのではないでしょうか。
「わたしたちのすべきこと」とは何でしょうか。まず大切なのは「この世界が神のお創りになった世界だ」と思って生きることです。そして、わたしたちがしている「仕事」は「この世界で、人と共に生きるためにすることだ」と思うことです。目の前のキーボードをたたくこと、機械を操作すること、誰かに話しかけること、書類のハンコを押すこともすべてそうなのです。「仕事」は自分の糧を得るための作業であると同時に「誰かと共に生きる」ためのことです。それ以外にも、仕事とは言えない作業、例えば落ち葉を集めることなども「誰かと共に生きる」作業の一つです。誰からも感謝されないかもしれないけれども、キリストに倣って生きるのなら、やってみるとよいでしょう。そしてもちろん、わたしたちは究極的には「生きる」ことで神さまからの「やるべきこと」はまず果たしています。神さまは人をお創りになった時、「誰かと共に生きるように」創造されました。その原点に戻って、この分断された世界で、誰かと共に生きることを大切にしていきましょう。
