続ける
ルカによる福音書 18章1~8a節
本日の福音書は「やもめと裁判官」のたとえ。絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるためにイエスが語ったたとえです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官に対して一人のやもめが、しつこく「相手を裁いて、私を守ってください」と言うので、その裁判官は面倒だからと裁きを行ったというたとえです。
何事もそうですが「続ける」というのは結構大変なことです。しかも長年続けるとなると、もっと大変です。ダイエットや健康のための運動、資格試験や興味を持ったことへの勉強、楽器やスポーツなどのの練習、早起きの習慣や食事の習慣など、「よし、やろう」と思ったことは何回もあっても、「続かなかった」という経験の方が多いのではないでしょうか。わたしもそうです。英語の勉強をし直そう、聖書解釈のためにギリシャ語を続けよう、楽器ができるようになりたい、健康のために運動をしよう、などなど、始めては続かずに止めてしまったことがたくさんあります。「祈る」ことも、やっているようでなかなかきちんと続いているとは言い難いように思います。食前の感謝のほか、「静かな祈りの時を持ちましょう」と呼びかけていながら、自分のことを振り返れば「あまりできていないなぁ」というのが正直なところです。だからこそ、そういったことをわたしよりも長く、続けていらっしゃるみなさんに、頭が下がる思いです。
「祈り」を「続ける」、この言葉における「祈り」ってどんなお祈りだと思いますか。「主の祈り」などのいつもするべきお祈りでしょうか。それとも「食前の感謝」などの折々に触れてのお祈りでしょうか。それとも祈祷書に載っている「朝の祈り」などの立派な礼拝式でしょうか。それとも毎週日曜の「聖餐式」でしょうか。それとも逆にもっと個人的な、寝る前などにする小さなお祈りでしょうか。それぞれたくさんの考え方がありますね。教会は伝統的に「聖餐式」や「朝の祈り」などの「時の祈り」を整備して、本当にいつも祈っている生活ができるようにしてきました。「祈祷書」をよく読めば、一日の中で使うことができるお祈りがたくさん収録されています。「食前の感謝」などのお祈りは、結構人によって違いますが、でも慣れてくると自分の中で「こう祈る」というパターンができてきていることも多いのではないでしょうか。こういったお祈りは、結構みなさん、実践して続けてくださっているのではないかと思います。とても素晴らしいことです。
ここでイエスが取り上げている祈りは、時々の祈りのことだと思うのです。つまり、「このことについて祈ろう」として祈るお祈りであり、また決まった時間にお祈りする中でも、決まった文字になっていないお祈りのことでしょう。やもめは「相手を裁いて、わたしを守ってください」と毎回機械的に言ったわけではなく、いろいろと言い方を変えたり、時間を変えたりして、とにかく繰り返し、この裁判官のところに言いに行きました。だからこそ「面倒でかなわないから」と裁判を開くことにしたのです。つまり、神さまに願う時にも、いろいろな場所で、いろいろな時間に、いろいろな言い方で、自分の強い願いを、特に正しいことが行われるための祈りをすることが大切だ、ということです。もちろん、聞かれることがあるとは限りません。それでも、願わなければ可能性はゼロです。神さまは言ってもいないことを察して動いてくれる方ではありません。だからこそ、わたしたちは願う言葉をたくさん重ねなくてはならないのです。なるほど、確かに面倒になって、いつも同じ言葉になってしまうこともあります。でも、時々でいいので、いろいろな言い方を試してみましょう。それだけで、主に届きやすくなると思うのです。これからも祈り続けていきましょう。
