あなたの家に泊まることにしている
ルカによる福音書 18章9~14節
本日の福音書は「徴税人ザアカイ」のお話。嫌われ者の徴税人ザアカイの住むエリコの町にイエスが通りかかり、背が低かったザアカイは群衆の後ろだと見えないので、イエスを一目見ようと木に登ります。イエスはその下で足を止め、ザアカイの家に泊まると言い、ザアカイは悔い改めることになった、というお話です。エリコの町には「ザアカイが登った木」と言い伝えられる木がまだ立っているそうです。
ザアカイは「徴税人の頭で金持ちであった」と書かれています。ということはかなりの「恨み」も買っていただろうことは想像に難くありません。「群衆に遮られてみることができなかった」というのも、もし彼らに「仲間」だと思われていたのだとしたら、通してもらえるとか、譲ってもらえるとかしたのでしょう。でも残念ながらそうではなかったということです。そして彼の持っていた財産がいくらほどなのかはわかりませんが、「財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」と言い切れたということは、それを払いきっても大丈夫なほどのものがあったということです。そしてさらに「だまし取った物」がある可能性があるということは、徴税するのに手段を選ばなかったであろう、ということまで想像できます。子ども向けの紙芝居などではコミカルな小男、と言う感じで描かれますが、正直なところあまり「いい人」とは言えないのではないでしょうか。まさに「失われたもの」であったのだと思います。
イエスはその「失われたもの」を探して救うためにやってきました。ザアカイの側にとっては、イエスに言われるまで、自分が「失われたもの」であった、という自覚はなかったでしょう。でも、イエスはまっすぐにザアカイのところに向かってきたのです。そしてその「救い」は、ザアカイの威光など全く関係なくやってきたのです。イエスはザアカイに「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」と声を掛けます。「あなたの家に泊まりたいけどいいだろうか」でも「泊まりたいと思う」でもなく「あなたの家に泊まることにしている」なのです。それはもう決定事項であり、必要なことであり、もっと言うならばイエスがエリコに来た目的でもあったのです。
神さまは「救う」と決めたら必ず救います。そこに選択肢はありません。もちろんザアカイにもかすかな働きかけはあります。イエスに興味を持ち、見たいと願って通るところに行き、木に登ってまで見ようとしたのです。では、このザアカイの行動が、彼がイエスに出会い、救われる条件であったのかと考えると、わたしは少し違うと思います。イエスはこのためにエリコに来たのですから、ザアカイが全く興味がなくて、家に閉じこもっていたとしても、彼の家に立ち寄ったでしょう。そして、やはりザアカイのところには救いが訪れたと思うのです。もし神が必要だと思うのなら、救いは必ずもたらされるし、わたしたちがどんな行動をしていたとしても変わりがないはずなのです。
わたしたちは自分の意図しないところで、イエスに出会って、自分でこうなろうと思ったわけではないのにイエスに倣うようになっています。わたしたちの考えの及ばないところで、導かれるように変化していった、そんな感覚がどこかにあるのではないでしょうか。わたしたちは、自分が従順に従っている羊なのか、群れから外れた羊なのかよくわかりません。でも一つだけ言えることは、イエスは「失われたもの」を探して救うために来る、ということです。だから自分のところに来たのなら、自分が「失われたもの」であったのだと知り、そして従うだけです。それだけでいいのです。
