神の力と共に

2025年07月06日

ヨハネによる福音書 10章1~12,16~20節

 本日の福音書はイエスが72人を派遣する場面。72人の弟子たちを行こうとする町や村に二人ずつ派遣し、悪霊を追い出させます。72人は帰って来ると喜んで帰ってきます。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、わたしたちに服従します」と言って喜ぶ彼らに対してイエスは「悪霊どもが従うからといって喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と戒めるのです。

 弟子たちは「その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言う」ために派遣されます。そして「この家に平和があるように」と平和を告げ知らせる役割を負います。わかりやすく一言で言うと「宣教」のために遣わされているのです。そのために「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」とイエスは言います。だからこそこの弟子たちは喜んで帰って来たわけです。「悪霊を追い出せた」、つまり、自分だけではできなかったけれども主の名によっていろいろなことができたわけです。彼らにとっては喜びにあふれた出来事だったでしょう。だって、何もかもうまくいったわけですからね。

 何事もそうですが「うまくいく」というのは気持ちのいいものです。大きなトラブルもなかったな、たくさんの人に喜んでもらえたな、とか、行事だったり仕事だったり、大きな成果を上げることができるというのは良いことです。しかし一方で、わたしたちの日常生活はなかなか全部が全部うまくいくことはありません。だいたい、年齢を重ねてくると体調だって「すごく調子がいい」というわけにはいきません。いつもどこかが痛かったり、うまく動かなかったりもします。一部上手くいかないことがあっても、いや、ほとんどのことがうまくいかなくても、何とか過ごしているのが日常だったりします。そしてまた、わたしたちは「うまくいくこと」が続くとそれに慣れてしまいます。「当たり前」になってしまうことがあるのです。「勝って兜の緒を締めよ」ということわざもある通り、「うまくいっていると思うときほど気をつけなくてはならない」ことはよくあります。そして「すべてを自分の力だ」と思いすぎると、途端にうまくいかなくなってしまったりするのです。

 キリスト者は「宣教」をするものです。もちろんこれは難しく考えることではなくて、わたしたちが日常生活に神さまを取り入れていくことで、自然とそうなっていく、わたしたちが生活することそのものが「宣教」になっていくものであると言えます。「宣教」というのは特別なプロジェクトではなく、わたしたちの日常そのものなのです。つまり、わたしたちの「宣教」は確実にうまくいくことなどなかなかありません。逆に「うまくいっている」と思ったときに誇りすぎてしまって、うまくいかなくなってしまうこともよくあります。

 イエスは「悪霊どもが従うからと言って喜んではならない」と弟子たちを戒めます。なぜなら、彼らがうまくいっているのはあくまでイエスの授けた権能があるからです。弟子たち自身の力なのではありません。だからこそ日々の宣教がうまくいっているときほど、わたしたちは「うまくいくこと」に目を留めるのではなく、世界が少しだけ「良い世界」の姿を見せていることに目を留めましょう。称賛されるのはあくまで人ではなく、神さまなのです。「宣教」はわたしたちの日常生活であると同時に、神が行うものでもあります。わたしたちの日常生活と一緒に神さまの力が働くからこそ、悪霊は追い出され、「平和」が訪れるのです。わたしたちと共に神さまがいつも力を注がれ、イエスがいつも横で歩いてくれるように祈りましょう。そして「主の名によって」歩み続けましょう。


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