生きている者の神
ルカによる福音書 20章27,34~38節
本日の福音書はサドカイ派との「復活について」の問答。レビラート婚の習慣を引きながら、「復活があったらどうするのか」と言うサドカイ派に対して、イエスは「死者は復活するし、復活後は今までの命とは違うのだ」と示してこれを退けます。最後にイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。
サドカイ派はユダヤ教の中でもユダヤの王と結びついた保守的なグループで、モーセ五書のみを大事にしていました。また、基本的には特権階級に属し、裕福であったので、イエスたち市井の人々とあまり交わることもありませんでした。それに対してファリサイ派は、モーセ五書だけではなく、他の文書やモーセの口伝も大事にしており、その中に「復活」についての根拠を持っていました。また彼らはどちらかと言えば庶民階級の出身であり、「口伝」も含めてたくさんの文書を学んでいて「律法学者」が多かったと言われています。この2派は「復活」についてしばしば激しく議論を戦わせていました。
「復活について」の論点の一つは『「死後の命」「復活の命」と「今わたしたちが生きている命」は違うか否か』ということ。基本的には「復活」=「新しい命に変わること」でもあるので、復活後の世界は今とは違ったものになる、というのがわたしたちの前提としている考え方です。ファリサイ派はこの意見で、イエスとも基本的には同じです。だからこそイエスはモーセ五書である出エジプト記を引きながら「アブラハム・イサク・ヤコブは今も生きている」と説きます。つまり彼らもまた新しい復活の命に生きているということです。そしてわたしたちにとって、イエスは自らの「復活」により、このことを証明した、ということです。イエスは新しい命に復活し、今までの命とは違ったものになったのです。
だからこそイエスは「神は生きている者の神である」と言います。つまり、わたしたちは「この世の命」を生きている。アブラハムを始めとした死者たちも「復活の命」を生きる。「いのち」のあり方は違うけれども「生きて」いることには変わりがない。だからこそ「神は生きている者の神」だと言えるということです。わたしたちは時々「自分の死後はどうなるのだろうか」と思い巡らすことがあります。「無になる」と言う人もいるし「生まれ変わる」と言う人もいます。教会としての考え方は「新しい復活の命に変わる」ということになります。無くなったり、別のものに生まれ変わったりするのではありません。なるほど、サドカイ派のように今も「じゃあそれだったら、天国がいっぱいであふれちゃうじゃないか」と言う人もいます。なるほど、わたしたちの今の物理法則だったら確かに満タンです。今まで亡くなった人を数えるなら、多分地球全体が埋め尽くされるほどでしょう。しかしどのような仕方かはわかりませんが、「復活の命」の在り方と「天の国」の大きさは、わたしたちのこの世の物理法則に則っているのではありません。だからそういう心配は基本的に無用なのです。
わたしたちは毎日曜日に「聖餐式」を行います。聖餐式は、感謝聖別の時の式文にもありますが、「み使いとみ使いの頭および全会衆」から、もしくは「世にある者と世を去った者のすべての人を一つの体」として行われる礼拝です。わたしたちは聖餐式のたびごとに、世を去った、わたしたちの友人たちと、先祖たちと、家族たちと、教会の仲間たちと一つになることを体験しています。そのことを受け止めながら「生きている者の神」である主を礼拝し続けていきたいと思います。
