たとえ世界が終わるとしても

2025年11月16日

ルカによる福音書 21章5~19節

本日の福音書は「終末について」。ウィークエンドだったら、なにをしようかと考えるところですが「SEKAI NO OWARI」だったらどうしたらいいでしょうか。歌って何とかなるならそれでもいいのですが、ちょっと考えてしまいますね。

 「世の中がなんかおかしい」とか「異常事態が続いている」という感覚は、結構多くの人が抱いている感覚かと思います。「世の終わりの時」とまではいかなくても「なんか変だね」という思いを持つ人は多いでしょう。確かに、ウクライナの戦争を始めとして、パレスチナ紛争も続いています。東南アジアでもタイとカンボジアが争っていますし、中国が台湾に侵攻するのではないかという推測もあります。東日本大震災から15年が経とうとしておりますが、その後も胆振東部地震もあり、カムチャッカでの地震と津波など、大地も揺れ動いています。気候が変化し、北海道でも暑い日が増え、「線状降水帯」で今までそこまで雨が降らなかった地域でも大雨になり、洪水が起こります。新型コロナウイルスだけではなく、エボラ出血熱や新型インフルエンザなど、病気の流行も起こっています。さらに宗教原理主義が幅を利かせ、テロ活動も盛んです。それ以外にも銃の乱射事件やら、薬物の蔓延、様々な詐欺事件など、目を覆いたくなるようなニュースがたくさん耳に入ります。これを今日の聖書の言葉に当てはめてみると、確かに「世の終わりの時が近い」ような気になってしまいますね。

しかしそれに対して「だから、前もって弁明の準備はするまいと、心に決めなさい。」とイエスは言います。確かに何事も「備えあれば患いなし」ということで、わたしたちはたくさん準備をします。ですが、そのことだけに集中してしまうと、恐れの方が大きくなって、身動きが取れなくなってしまうことも起こり得ます。そこでイエスは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである」と続けます。旧約聖書にもよく出てくるのですが、聖書は「復讐は神がすること」と、自分の力が及ばない時に「神に委ねる」ことを勧めています。

こう言うと「じゃあ、ただ座して死ぬのを待つだけなのですか」とおっしゃる方もいます。でも、イエスが言いたかったことはそうではありません。「多くの出来事で心を乱すのではなく、自分の目の前を見なさい」ということであろうかと思います。イエスが今まで教えてきたことを実践しながら、つまりあなたの目の前にいる人に向き合いながら生きることです。そして、あなたの目に入る「困りごと」を抱えている人に寄り添って生きることです。自分の手の届く範囲を「神の国」にしていくということです。

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」、マルチン・ルターが言ったとされる言葉です。実際はこう言ってはいないようですが、ルターの精神を良く表している言葉として、様々なところで引用されてきました。もしも世界が終わるとして、わたしたちは勇者でも英雄でも何でもありませんので、映画のように華麗に終末を回避したり、問題を解決したりはできそうにありません。それでも「リンゴの木を植える」ように、日々のことを行うことはできるはずです。遠くまで行き過ぎてしまったわたしたちの想像力を、自分の手の届く範囲に引き戻すことです。もし明日、世界が終わるとしても、今日目の前の人が笑顔になるのなら、その笑顔をもって世の終わりを迎えることができます。それは無駄ではないのです。さぁ、教会の扉を開いて、一歩を踏み出していきましょう。

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