今日わたしと一緒に楽園にいる
ルカによる福音書 23章35~43節
本日の福音書は「十字架にかかったイエスと二人の犯罪人」の場面。「特定」の週から、「降臨節」への切り替わりである「降臨節前主日」には、「終末」や「再臨」を意識した福音書が読まれますが、その一つです。十字架にかかったイエスをあざ笑う人々と「この方は何も悪いことはしていない」という一人の犯罪人とが対比されています。最後にイエスは「悪いことはしていない」と言った犯罪人に対して「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言い切るのです。外典によれば、この犯罪人の名前はデュスマスであり、聖人としても崇敬されていますが、聖公会ではその習慣はありません。(カトリックと正教会が聖人として扱っています)
十字架にかけられている状況は、正直なところ「もう死ぬしかない」という状況です。基本的に抜け出す見込みはありません。そんな状況であれば「もういいや」と思って、「どうでもいい」となってしまうのも当たり前です。だから「罵った」犯罪人の行動もわからないではないのです。「どうせ死ぬんだし、だったら好きなようにしてもいいじゃないか」というわけですね。
こういった極限状態の時、普段通りに過ごすことができたり、悔い改めて神のほうに向きなおったりというのは、なかなかできることではありません。だから「この方は何も悪いことはしていない」と言った犯罪人も、この状況で自分の悪事を見つめ、神のほうに向きなおろうとしたからこそ「聖人」と扱われているわけです。ところが、わたしたちは悪いことに、いや普通なのかもしれませんが、おそらくのところ、極限の状況になったとしても、それがわからなかったり、神さまに向かう勇気が出なかったりするのです。先週もお話したことですが「世界が終わる」とわかっているのなら、刹那主義になってもおかしくはありません。だからこそ、わたしたちは「何を信じるのか」ということが大切になってくるのではないでしょうか。
イエスは「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と犯罪人の一人に言います。これは、復活の新しい命についてのことであるのでしょう。どう考えても、今から二人で十字架刑を脱出して「楽園」に物理的に脱出するということではありません。そしてこの言葉は、わたしたちに向けても響いている言葉でもあると思うのです。
「今日私と一緒に楽園にいる」というイエスの言葉は、わたしたちにとっても希望です。どんな時であっても、イエスがわたしたちと共にいてくれる、共に歩んでくれるということだからです。そしてこの言葉は「極限状態」、つまり十字架にかけられて、逃げられないような状態にだけ適用されるものではありません。なぜなら、この言葉が発された相手、つまり「この方は何も悪いことはしていない」と言った犯罪人が、まさにその言葉によって神の方に向きなおった時、つまり「悔い改め」たときにかけられた言葉だからです。イエスは誰でも、悔い改めた人に対しては、それがどんなに極限状態であっても「楽園にいる」という声をかけてくださる方なのです。
わたしたちが信じるのは、どんな状態であっても、わたしたちが神さまのほうを向くとき、「楽園にいる」と言ってくださる主です。もちろん、神さまのほうを向くのは、なにも極限状態に限った話ではありません。いつでも可能なことです。ですから、今、教会が一年を終え、新しい一年に向かうこの時にこそ、わたしたちは神さまに向きなおることを思い出したいと思います。どんな時にあっても、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という主の言葉を胸に、信仰の道を歩み続けることを大切にしましょう。
