主の道はいつもまっすぐ

2025年12月14日

マタイによる福音書 3章1~12節

降臨節も第3主日となりました。今日の福音書はマタイから洗礼者ヨハネの登場。イザヤ書の「荒れ野で叫ぶ声」の預言も引用されています。ヨハネは悔い改めの洗礼を多くの人に施し、厳しい言葉で教えます。

ユダヤ人にとって、自分たちが「先祖アブラハム」とつながっている、ということは大変なアイデンティティでした。「わたしたちはアブラハムの子孫であり、特別なのだ」という思いはいつもありました。それに対してヨハネは「「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな」と厳しい言葉を投げかけたのです。

ヨハネにとって、その当時のユダヤの人々は危機的状況にあるように見えました。律法は守られているようで、集団から外されてしまった人たちが数多くいました。条文としては守られていたかもしれませんが、神の御心から離れてしまっている、とヨハネは感じていました。だからこそ荒れ野に退き、神の声を聞きながら、その声を多くの人々に伝えたのです。「荒れ野で叫ぶ者の声」は「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と叫びます。ヨハネは「主にもう一度きちんと向き直りなさい。」「神さまの教えたことについてもう一度考えなさい」と呼びかけたのです。ファリサイ派の人々は人々のことを考え、どうやったら律法を守れるか考えましたが、実際は条件を増やしただけで、守りにくくしてしまいました。サドカイ派の人々は、王権と結びつき、市井の人々のことなど考えませんでした。だからヨハネは彼らに厳しく言います。文字だけでなく、神さまの御心を感じ取りなさいと、ヨハネは叫びます。創世記で、神はアブラハムを祝福し、その子孫を「星の数のようになる」と言いました。だからこそ「アブラハムの子孫なんだから、わたしたちは何をしても大丈夫」と思っていた部分は否めません。それでも神さまは何度でも、神さまの方に戻ってくる人々を受け入れます。失われていた者が見いだされたことを祝福する神さまです。だからこそ「呼ばわる声」が生きてくるのです。わたしたちは何度でも、ヨハネのよびかけの意味を思い出し、神さまのほうに向きなおるのです。

神さまはわたしたちの方にまっすぐやってきます。しかし一方で、わたしたちはじっとしている羊ではありません。だから外から見れば、神さまの通る道は曲がりくねっています。それでも神さまにとって「わたし」のところにつながる道は「まっすぐ」なのです。神さまはわたしたち一人ひとりのことをよくご存じで、わたしたちがどこに動いたのかすぐにわかって、そちらに向きなおってくれます。わたしたちが声に気づいて神さまのほうを向き、神さまもまた私たちの方を向くことで、神さまがわたしたちのところにやってくるのです。

クリスマスの準備というのは「神さまをわたしたちのところにお迎えする準備をする」ということです。来週まで続く「降臨節」は、わたしたちが自分の心を神さまに向ける大切な時間です。このヨハネの声に耳を傾け、様々なことを思い巡らしながら、主のご降誕を待ちましょう。大丈夫。わたしたちがどんなにとんちんかんな方向に行ってしまっても、神さまはまっすぐ、わたしたちの方に向かってきています。イエス・キリストは「世の光」です。「光」より早いものはありません。だからこそわたしたちは、その光を私たちのところにお迎えできるよう、神さまのほうを向くように心がけていましょう。もうすぐクリスマスです。最後の1週間、良い準備ができるよう、お祈りしております。


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