言葉が実体となる時を待つ
ヨハネによる福音書 1章1~18節
クリスマスが過ぎて、最初の日曜日。ヨハネによる福音書からイエスの誕生の意味について。「初めに言があった」と、わかりやすいようでわかりにくい言葉が続き「イエス誕生の意味」を告げます。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿った」と、ヨハネは語ります。
「言(ことば)」とは一体なんでしょう。わたしたちが普段使っている言い方だと「言葉」となりますが、ここでは一文字で表しています。これはもともと、なんというか、わたしたちの使っている言葉の中にある「芯」のようなもの、それを「言」と表現している、ということなのです。ヨハネは哲学的にイエスのことを捉え、この福音書を書き著しました。この福音書を書いたとされているヨハネは、使徒の中で唯一、殉教せずに長生きしたと言われています。100歳近くなっても教会に住み、礼拝のときにはいつも、イエスの思い出を語っていた。イエスと過ごした時間より、イエスが天にいなくなって、一緒に活動した使徒たちもみんな殉教していなくなって、教会の仲間たちとは一緒にいるけれども、たくさんのことを思い巡らしていたでしょう。こうやって、ヨハネは自分の考えたことをみんなに伝えようとしたのです。
聖書によればこの世界は「神の言葉」によって始まります。混沌の世界が広がっていたところに「光あれ」という神の言葉があり、「光と闇」という秩序が生まれました。神の言葉が「光」と「闇」という実体を持ったのです。こうして、次々と「神の言葉」によって世界は作り上げられていきました。その中で空と大地が生まれ、命が生まれることになったのです。この「神の言葉」のことを「言」と表現しています。わたしたちの使う言葉と違い、「神の言葉」は現実になります。言葉が実体を持つのです。
ではなぜイエスのことを「言」と表現するのでしょう。それはイエスの行動に関係があります。イエスは様々な活動をするとき、例えば人を癒やすとき「○○しなさい」とか「○○になりなさい」という言い方を良くします。そしてその言葉が実現した、と聖書には記されています。「起き上がって床を担いで歩きなさい」と言えば病人は癒やされて立ち上がり、死んでいた少女に「起きなさい」と言えば立ち上がり、「人間をとる漁師になりなさい」と声をかければ、漁師は弟子になりました。イエスの言葉が実現していくことで、人々は「ああ、この人こそ神の言葉」だ「救い主だ」と強く感じるようになったのです。
残念ですが、わたしたちにはその「現実にある」「実体を持つ」様子は、遠い過去の話です。しかし一方で「神さまの言葉」が実現する様子は、まったく見られないわけではありません。戦場で、クリスマスの夜に一時だけの平和があったり、東日本大震災の後、多くの人が一つになったり、そういったことが、時々起こることがあります。「言」はまだわたしたちの間で働いているのです。
キリスト者とは何を信じる人たちなのか、何をする人たちなのかと問われることがあります。これに対しては「神の言葉を実現するために働く」人たちであり「神の言葉が実体となることを信じている」人であると言うことができます。もちろんこれを力づくでしようと思ったら、ただのカルト宗教になってしまいますが、そうではなくて、それを「自分の手の届く範囲から」始めていくということです。あと少しで新しい年がやってきます。クリスマスは「イエスの誕生祝い」であると同時に、「イエスが再び来られる」ことを期待するときでもあります。その時こそ、わたしたちは「神の言葉が実体を持つ」のを見ることができるでしょう。主を待ち望みつつ、新しい年へ向かいましょう。
