わたしがするんですか
マタイによる福音書 3章13~17節
今日は顕現後第1主日。顕現日の大切な意味である「イエスが洗礼を受けた」ことを記念するための主日です。福音書はマタイから主イエスの洗礼。ヨルダン川で洗礼を授ける洗礼者ヨハネのところにイエスがやってきて、洗礼を受けようとします。ヨハネは「私こそ。あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか」と止めようとしますが、イエスは「今はこうさせてもらいたい」とヨハネから洗礼を受けます。そこで天から「これはわたしの愛する子」という声が聞こえるのです。
イエスに洗礼を授けることになって、洗礼者ヨハネは明らかに戸惑っています。イエスのことを「私の後から来られる方」と言い、自分より大事なものとしていたからです。当たり前のことですが、自分より立場が上の人が、わざわざ自分のところに来て、本来やらなくてもいいことをしようとしたら戸惑いますよね。「よりによってわたしがするんですか」「大丈夫ですか」と心配になってしまいます。ヨハネも抵抗しますけど「今はそうさせてもらいたい」と言われてしまったら従うしかありませんよね。おそらくかなり緊張した洗礼になったであろうことは想像に難くありません。
以前、MtSの仕事をしていた時のことです。横浜にMtSの名誉総裁であるイギリスのアン王女が来られることになり、日本全体のMtSのみなさんと記念礼拝をすることになりました。わたしは当時苫小牧のMtSチャプレンということで、礼拝の際にチャリスを持つ役が与えられました。その席上で、警備の都合もあるのでアン王女は陪餐しないということで、すっかり安心して礼拝を行っていました。ところが、いざ陪餐になると、王女さまが手を出してきたんですね。それで、パテンの役割をしてきた主教さんがパンを差し上げるので、当然わたしがチャリスからぶどう酒を差し上げるわけなんですが、あれほど緊張した陪餐もありませんでした。しかも今は主流になっているインティンクションではなく、普通に杯に口をつけていただくわけです。「どうしてわたしがするんですか」、「もっと偉い人いるじゃないですか」と思いましたし、打ち合わせの台本にもなかったことですが、目の前に迫っている状況に従うしかありません。しかも最初なので、チャリスには並々とぶどう酒が入っています。こぼすんじゃないかとひやひやもしました。その時思ったのは、明らかに落差はあるけど、洗礼者ヨハネもこんな感じだったのかな、ということです。
自分が思いもかけず大きな役割を与えられてしまうことって、稀によくあります。回避できるものならしたいですが、神さまが絡むとなかなかそうもいきません。しかし後から振り返ってみると、それは「必要なことだった」のだと思うようなことが多い気がします。ヨハネも最初はとても驚いたものの、洗礼を授けることになりました。そして「イエスも洗礼を受けている」という、わたしたちにとって大事な出来事が起こることができたのです。
もし仮にヨハネが「わたしにはできません」と固辞し続けたのなら、この出来事は起こらなかったでしょう。イエスに聖霊が降ることもなく、誰にも知られなかったエピソードの一つとして、歴史に埋もれてしまったに違いありません。しかし、ヨハネがイエスの願いを受けたからこそ、「イエスの洗礼」として「公に救い主として姿を現す」という顕現日の出来事が成立したのです。
神さまは時に、わたしたちに、瞬時に「やるかやらないか」という大きな決断を迫ることがあります。どちらにせよ、もしできるのなら「やる」という方向で、進んでいきたいと思っています。「わたしがするんですか」ではなく「わたしがここにおります」と言えるようでありたいものです。
