行って、あなたも同じようにしなさい

2025年07月13日

ルカによる福音書 

 本日の福音書は「よきサマリア人」のたとえ。説明不要なくらい有名なお話ですね。このたとえは、イエスを試そうとして律法の専門家が問いかけたことに対する答えであり、キリスト者の生き方を説明するときによく出てくる話でもあります。

 変な話ですが、ここに出てくる最初の答え「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」は、基本的に人間のほとんどが賛同する話であろうかと思います。日本だと「わたしは無宗教だし、特定の神はいない」という人も多いかもしれませんが、「あなたの信仰の対象に敬意を払いなさい」ということであれば、わかるのではないでしょうか。わざわざ「自分の信仰の対象」に不敬を働こうという人は多くないでしょう。そして次の「隣人を自分のように愛しなさい」も誰も反対する人はいないでしょう。自分の周囲の人を大事にすることで、人間は生きやすくなります。人間は人と関わって生きていく生き物なので、その関りを大事にしていくことが生きることそのものでもあります。ここまではあまり反対する人はいないのです。

そこで、この律法の専門家の言ったように「ではわたしの隣人とは誰ですか」という問いが大切になってきます。ここが意見の分かれるところで、人類の対立の多くはここから来ていると言ってもいいくらいです。律法の専門家の考える「隣人」の範囲は、明確になってはいませんが「同じユダヤ教徒」であるというところでしょうか。もしかしたらその中に「その中でもきちんと立法を守っている者」という少し厳しい定義づけがあるかもしれません。しかしイエスは「よきサマリア人のたとえ」をもってその答えに変えました。つまり「『隣人』の別の定義があるではないか」ということです。

サマリア人にとってユダヤ人は「異教徒」でした。つまりこの律法の専門家の考える「隣人」の範囲ではありませんから助ける必要はないはずです。でも、サマリア人は追い剥ぎされた人を助けます。「祭司」や「レビ人」はユダヤ教の聖職者ですから「隣人」の範囲です。助けることは主の目に適うことです。でも、彼らは助けませんでした。目の前に「困っている人」「助けを求めている人」がいるのなら、その人がどんな人であろうと「助ける」ことをまず第一にしなさい、とイエスは教えています。つまりイエスは「誰でも隣人でありうるのだ」と呼びかけているのです。

さらに大切なことがあります。それは「このたとえ話は偶然の出会いの中で起きた」ということです。誰だって「困っている人がいたら助けよう」と思うことはできますし、簡単です。しかし、その人に実際に出会った時、そうすることができるとは限りません。「追い剥ぎにやられた」わけですから、それこそ血だらけで、自分が介抱したら汚れてしまいます。また助けたとしても逆恨みされるかもしれませんし、拒否してくる人だっています。さらに現代でも時々ありますが、善意に付け込む人だっています。「助ける」と考えるだけでもたくさんの危険性が出てきます。「助ける」ことは、実はそんなに簡単なことではないのです。それでも教会は「まず助ける」ことを大切にしてきました。それはイエスが命じたことだからです。「行って、あなたも同じようにしなさい」という呼びかけは、わたしたちみんなにイエスが命じていることです。だからそうやって助けようとするのです。人は「賢くあれ」と言うかもしれません。騙されて、大変なことになるかもしれません。自分の助ける範囲、「わたしの隣人」を助ける、大事にするだけでも、たぶんわたしたちは完璧にはできないでしょう。でも「主のようにしてみる」ことが大切だと思っています。

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