身も心もついて行く

2026年01月18日

ヨハネによる福音書 1章29~41節

 今日は顕現後第2主日。福音書はヨハネから、イエスと洗礼者ヨハネの様子。そしてヨハネの弟子がイエスについていく様子が描かれます。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と言うと、ヨハネの二人の弟子がイエスに従います。どこに泊まっているのか聞く弟子たちにイエスは「来なさい、そうすればわかる」と答え、弟子たちはそこについていきます。

 イエスの弟子たちが従う場面は、よくわからない話です。だってそう思いませんか。ヨハネが、自分の師匠が、「神の小羊だ」と言っただけの相手です。それにいきなり付いて行って、宿を聞き出し、一緒に泊まる。本当によくわかりません。わたしたちは日ごろ「知らない人に付いて行ってはいけません」と、子どもたちに教えています。これは子どもだけではなくて「知らない人にホイホイ付いて行ってはいけない」というのは大人にだって当てはまります。旅行先などで声をかけられて付いて行った結果、事件に巻き込まれる人もかなりいます。昔だったらよかったのかと言うと、別にそうではないような気もしますね。相手がイエスだから、心理的なハードルが下がっているような気になりますが、実際は結構危ない話です。だからこそ、これを「どう教えるのか」「どう考えるのか」はとても大事な気がします。

 もちろん、単純な教え方であれば「イエスさまだからついていっても大丈夫」と言ってしまえばいいのだと思います。でも、これだと思考停止です。わたしたちが、今、イエスに出会ったとして、誰かが勧めてくれたからとして、それが本当のイエスだとわかるものでしょうか。

 そもそも「付いていく」とはどういうことでしょう。もちろんわかりやすいのは、物理的に「付いていく」ことです。このヨハネの弟子たちはそうしていますよね。イエスの宿泊先を聞き、そこまでついていって一緒に泊まるわけです。さらに自分の身内、ペトロを連れて再びイエスのところを訪れるまでになります。ちょっと変な言い方ですが「身も心も」「付いて行って」いるのです。

「付いて行く」という時、「心で付いて行く」ということもあります。本などを読み、映像などを見て「物理的にそこに行くことは難しいけれども心を寄せる」ということもあるでしょう。好きな作家の文章を集めて考え方に触れるとか、テレビやラジオに出演するなら視聴するとか、そうやって「その人の考え」に触れて「心で付いて行く」のです。これだったら、ある意味安心ではあるかもしれません。一方で、どんな価値観でも、それこそカルト宗教の教祖だって本を書いたりメディアに出演していたりします。「わたしはキリストの生まれ変わりだ」と言う人だっています。それを見極めるのが難しい、という点を忘れてはならないでしょう。

大切なことがあります。それは「付いて行く」とき、「心」が置き去りになっていると、あまり意味がないということです。「物理的に」「身体が」一緒にいたとしても、そこに「心」がないのなら、ただそこにいるだけなら何も起こらないということです。ヨハネの弟子たちがイエスに付いて行ったとき、もし「心」までも付いて行かなかったのだとしたら、後に「使徒」と呼ばれるまでにならなかったでしょう。

わたしたちは「イエスに付いて行こう」としてここにいます。でも「ただ何となく付いて行く」感じになってはいないでしょうか。とりあえず「身体はここにある」けれども「心が向いていない」ということも時々あるでしょう。それでもなお、イエスに心を向け、イエスがわたしたち一人ひとりに示していることを感じながら、身も心も、イエスに付いて行くことを大切にしたいと思います。


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