山の上で、しかし座っている

2026年02月01日

マタイによる福音書 5章1~12節

 今日は顕現後第4主日。福音書はマタイから、山上の説教。イエスが山の上から教えた場面で、特に最初の「心の貧しい人々は幸いである」から始まる「真福八端」は有名です。

 この「山上の説教」、みなさんはどんなイメージがありますか。一般的に「多くの群衆に対してイエスが山の上から立って語った」と感じられる方が多いのではないかと思います。が、今日の最初の導入部分をよく読んでみると、ちょっと印象が変わってきます。イエスは山に登って、腰を下ろして、「弟子たちに向かって」語り掛けているのです。わたしたちは知らず知らずのうちに「イエスは大勢に向かって語っている」と思ってしまいます。しかしよくよく聖書を読んでみると、どちらかというとイエスは座って、弟子たちなどある程度限定された範囲の人々に語り掛けていることが多いのです。立って「教える」のではなく、座って「語り掛ける」のです。そして、わたしは聖書を読むとき、イエスが「どんな状況で」語ったのか、という視点を忘れずにいたいと思っています。つまり、立って多くの人に語ったことなのか、誰かと一対一なのか、座って弟子たちに語ったのか、敵対者に対してなのか、食事の席なのかなどいろいろな状況があって、それによって、語ってくることの印象も大きく違ってくるのではないかと思うからです。聖書の言葉は結構、言葉だけ切り取られて、それがさも普遍的に成り立つかのように語られてしまうことが多いので、気をつけなくてはならないのです。わたしは「言葉」というのは、語られた状況や誰が話しているのかによって、同じ言葉でも意味が違ってくるもので、聖書も例外ではないのです。

 さて、この「心の貧しい人は幸いである」というイエスの言葉についてです。ルカによる福音書にも似たような話がありますが、ルカは「貧しい人々は幸いである」となっており、ちょっと違います。そして状況も、マタイでは「山の上で、座って弟子たちに語った」のですが、ルカでは「群衆たちがいる平地で、弟子たちに向かって」語っています。このことから浮かび上がってくるのは、おそらく同じ話をマタイとルカが聞いて、自分の語りたいことを追加して福音書に書いたのだろうということです。では、今日の箇所であるマタイが大事にしたかったことは何でしょうか。それは「座って」ということなのだろうと思うのです。「山の上」という、多くの人々に語り掛けるのに良い場所に行きながら、「立って」語るのではなく、「座って」「近くに来た」弟子たちに語り掛けたのです。

 わたしたちはキリスト者として「福音」=「良い知らせ」を人に伝える役割を神さまから与えられています。「これを知らせたい」と思った時、効率を考えるのなら、たくさんの人々に「立って」、それこそ「山の上で」知らせたほうがいいに決まっています。しかし、イエスはそうせず、「座って」「近くに」語ったのです。どんなメッセージであろうと「たくさんの人に語り掛けると焦点がぼけてしまう」ということはあります。学生時代に聞いた、校長先生の朝礼でのあいさつの言葉、覚えている人はほとんどいません。大勢に語り掛けているので焦点がぼけてしまっているからです。きっと大切なメッセージはあったと思うのですが、残念ですがわたしたちの心にはあまり残っていません。では、わたしたちが伝えたいと思う時、どのようにすればいいのかはこのイエスがヒントです。「良い知らせ」を伝えるのなら、大勢に向かって語り掛けるのではなく、座って、少数の人に語り掛けるのです。非効率的に見えるかもしれませんが、むしろ一人一人に話していったほうがいいのかもしれません。そして「座る」ということは「近い」ということです。伝える相手と生活を共にしながら語るということです。そのイエスに倣って、わたしたちも「福音」を少しずつ伝えていきましょう。


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