異邦人のガリラヤから

2026年01月25日

マタイによる福音書 4章12~23節

 今日は顕現後第3主日。福音書はマタイから、イエスの宣教開始と4人の漁師を弟子にする場面。ナザレからカファルナウムの町に移って宣教を開始するイエス。そして「人間をとる漁師にしよう」と漁師たちに呼びかけ、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエスに従い弟子となります。イエスの宣教は「ガリラヤ」から始まります。

 「ガリラヤ」はローマ帝国にとっては「ユダヤの地」の一部ではありますが、イザヤの預言でも「異邦人のガリラヤ」と言われる通り、必ずしも「完全なユダヤの地」と認識されているわけではありませんでした。「東京」に対しての「東北」のように、どこか遠い地であったようです。一方で、イエスが拠点とした「カファルナウム」はかなり大きな町であり、この地方の中心に近く、下手したらエルサレムよりも地域的には重要だったかもしれない町です。ユダヤ人にとっての「異邦人」であるローマ人やギリシャ人も多く行きかう地域であり、サマリアとも近く、ユダヤの人々にとっては「ユダヤの範囲に収まるのか」「それとも違うのか」は大きな関心になっていました。だからこそ、そこから「救い主」(メシア)が誕生するとは考えにくいことだったのかもしれません。しかし、神さまは「それでもなお」その場所から神の子の活動を始めさせたのです。

 様々な発信は「中央」から始まるような印象を、わたしたちは持っています。文化しかり、流行しかり、政治的な発信もそうですよね。でも一方で、社会を大きく変えるような流れというのは「中央ではないところ」から始まることが多いような気がします。例えば中国などは歴史的に見ても、地方都市から反乱が始まり、中央の政権を打倒して王朝が交代する、というような流れが続いています。ヨーロッパ諸国も中央だけが変わって地方にそれが波及していく、というよりはやはり中央でない場所で動きが起こり、それが大きなうねりとなって社会を変革していくということが起こり続けています。政治の世界で「トリクルダウン」という考え方をよく聞きましたが、中央から地方に波及する経済などの効果があったかどうかは甚だ疑問です。

 「闇の中に住む民は大いなる光を見た」とイザヤは語ります。今と違って、情報の伝達が遅い世界です。正確ですらありません。そんな闇の中を手探りで歩いているようなところに、「イエス」という光が現れた。神さまに「見捨てられている」と思ってしまうかもしれないようなところで、大きなことが起こった。「死の地、死の陰に住む人々に光が昇った」のです。

 今、教会は変化の中にあります。教区合併の話、わたしたちの教会も「どうしたらいいのか」と考えてしまいます。中央から人が来て「こう決まったのでこうしてください」といって動くだけではありません。わたしたち一人一人が、今自分の置かれている状況の中で「こうしたらいいのかな」と始めたことが、大きな流れになることもありえます。むしろ、遠く離れた場所から「こうしてほしい」と「こうやっていきたい」と発信してみることも大切です。そして、イエスさまはいつも中央にいるわけではありません。むしろ地方の、小さな群れの近くにいてくださるはずです。イエスはいつも、豊かな中央ではなく、足りないものの多いところから始めます。持っているところではなく、持っていないところへ向かいます。教会もわたしたちも、誰と寄り添うのか、誰のところに目を向けるのか、そんなことを今一度考えてみましょう。もちろん、無理をすることはありません。できることをするだけです。イエスの宣教の始まりは「ガリラヤ」からです。わたしたちの周りの「ガリラヤ」に目を向けて、日々の歩みを続けていきましょう。


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