ずっと未完成
マタイによる福音書 5章13~20節
今日は顕現後第5主日。福音書はマタイから、山上の説教の続き。「地の塩、世の光」「律法について」の箇所が読まれました。「塩に塩気がなかったら外に放り出される」「灯をともして升の下に置く人はいない」そして、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。完成するために来たのだ」とイエスは語り掛けます。
「律法と預言者」というのは、「聖書」のことです。ユダヤの人々がずっと受け継いできた伝統であり、大切にしてきたもので、ちょっと固執してしまったりしているものです。でもイエスは、それを廃止するのではなく、完成するということを言います。つまりかつてのものも受け継ぎながら、完成に向かって行こうということです。「律法」と「預言者」、つまり「聖書」が語っているのは、この世界のことです。どこか別の世界の出来事の話ではありません。そして「過去」のものだから今には関係ないというものでもありません。
この世界は混沌から始まりました。そこに神の言葉によって世界が誕生します。その世界にさらに与えられたのが「律法」であり「預言者」という秩序が与えられました。神さまの秩序がずっと受け継がれているのです。そしてそれはさらにイエスによって受け継がれ、わたしたちのところまで届いています。
イエスさまはすでに来て、天の国に帰っていきました。ということは、来たことで「完成」したものをわたしたちは受け取っている、と考えてよいのでしょうか。でも、どう考えても「完成」しているのでしたらもう少し世界の状況は良いのではないかと思います。つまり、今の世界は「未完成」の状態だということです。では、イエスの言う「完成」はいつなのかと言えば、約束通り再びイエスが来られるときです。その時まで世界は「未完成」、つまり不完全な部分がある、ということです。「どうして神さまは世界を最初から完成させておかなかったのか」ということについては諸説ありますが、わたしは神さまが「人間」を「人形」ではなく「生きるものとした」かったからだと思っています。もし、ただ完璧な世界を作りたいのであれば、人形として、ただ神さまの意のままに動くものを作ればよかったのです。しかしそうではなく、神さまは人に命を与え、自分たちで手を取り合って、「未完成」から「完成」に向かって行けるように、少しずつ手助けしているのです。子どもが成長するとき、年齢などの段階によって、親は手を貸すことを少しずつ減らしていったり、子どもが自分で考えて進めるようにしたりしていくものです。神さまもまた、わたしたちにそのようにしているのです。今のわたしたちに与えられているのは「聖書」と「イエスの言葉」、そして「教会」です。
わたしたちは今「未完成」な世界に生きています。教会はその「未完成」な世界で、イエスの残した言葉を守りながら、少しずつ「完成」に向けての手助けをするための場所です。この世界が「完成」に向けて動いていることを感じつつ、イエスの教えた「互いに愛し合いなさい」という言葉を実践しながら、「世界の完成」に向かって活動します。でも、そこで働くわたしたち自身もまた「未完成」なので、結構うまくいかないことも多いものです。しかし、驚くべきことですが、神さまは「効率的」な方ではありません。むしろ「非効率」な方法をこそ好まれます。わたしたちは簡単に「今の自分には何もできない」と思ってしまいがちです。しかしそうではなく、わたしたちがちょっと成長することでも、世界は少しずつ完成に向けて動いているのです。わたしたちが先に「完成」するのではなく、未完成のままで耳を澄まして世界の声を聞き、そこに目を向けていくことでよいのです。
