手を触れて

2026年02月15日

マタイによる福音書 17章1~9節

 今日は大斎節前主日。福音書はマタイから、イエスの姿が変わる場面。毎年この箇所が読まれ、水曜日から大斎節に突入します。ペトロとヤコブとヨハネの3人だけがイエスと共にいて、イエスの姿が光り輝く姿に変わります。モーセとイザヤも現れてイエスと語り合い、そこにペトロが口をはさみます。こうしているうちにイエスの姿が見えなくなり「これはわたしの愛する子。」という神の声が聞こえ、イエスだけがそこに残っている、という流れです。マタイではイエスが弟子たちに近寄って「手を触れて」「恐れることはない」と3人の弟子に言うのです。

 人間には五感があります。「見る」、「聞く」、「嗅ぐ」、「触る」、「味わう」の5つで、わたしたちは様々なものを感じて生活しています。五感を鋭くしておくと、危険が自分に近づいて来ても回避することができるので、大変便利なものであると思います。ところが時々、この感覚が鬱陶しくなったり、しんどくなったりしてしまう時があります。「聞く」については、例えば選挙カーが近くに来た時、思わず耳をふさぎたくなることがあります。時には人ごみのざわめきも「聞きたくない」と思って耳を閉ざしたくなることもありますよね。だからなのか若者たちは耳にイヤホンを詰め込み、自分の聞きたいものだけを聞いていたりします。「見る」のもそうですね。テレビで急に凄惨なニュースが流れたり、ネットで映像を見ていると急に変な広告が入ったりして、思わず目をそむけたくなることがあります。「嗅ぐ」のもそうですね。大楽毛のあたりで「変なにおい」がしてきて、鼻をつまみたくなることがあります。「味わう」時、すごく変な味がして口から吐き出すときもあります。「触る」ことこそ大変で、意識しないで人の体に触れてしまうと「ハラスメント」で訴えられてしまいます。こうなると、感覚を鋭くするどころか、鈍くしてしまったほうがいいんじゃないかと思うこともあります。東京の満員電車の中なんか、みんなちょっと不快だろうによく平気だなと思います。多分みんな、わざとその時は鈍くなっているんじゃないかと思います。確かに鋭いだけだとしんどいのでしょう。でも一方で、鈍いままだとやっぱりなんか危険なんじゃないかともわたしは思うのです。

 神さまは「見えず」「聞こえず」「においもありません」。そして「触れず」「味わうこともできません」。よほど鋭くないと、神さまからの呼びかけは聞こえないんじゃないかと思います。つまり、普段の生活の中でだんだん鈍くなってしまっているわたしたちが神さまを感じられることって、どんどん減ってしまっているんじゃないかと思います。ペトロたち3人の弟子たちは、山でイエスの姿が変わり始めた時、すぐに気づくことができました。でも、もしかしたら今のわたしたちは、イエスが一緒にいたとしても気づかず、もしかしたら目の前で誰かが変化したことすら気づかないのかもしれません。そのくらい鈍くなってしまっているような気がするのです。

 教会は「感じる」ことを大事にしてきました。「見える」ように十字架を置き、人間の牧師を置きました。「聞こえる」ように聖歌を歌い、「嗅げる」ように香を用いてきました。聖餐をともに「味わい」っています。でも「触れる」部分は、手持ちの十字架やロザリオのような個人的なものに限られてしまっているのかもしれません。イエスは弟子たちに「触れて」語り掛けました。直接触って語り掛けられるだけで、どれほど安心したでしょう。わたしたちもまた「十字架」などに触れることで、安心することがあります。別に何でもいいのですが「触れる」ものが近くにあるといいのかもしれませんね。こうやって、わたしたちの「五感」を鋭くすることもまた、信仰を強くする道なのです。どうぞこの大斎節、わたしたちの神さまを感じる感覚を少し鋭くしていきましょう。


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