それは本当に今なのか
マタイによる福音書 4章1~11節
今日は大斎節第1主日。福音書はマタイから荒れ野の誘惑。霊に導かれて荒れ野に行ったイエスは四十日四十夜断食してから空腹を感じます。そこに悪魔が現れ、「石をパンに変えること」「神殿の屋根から飛び降りること」「自分(悪魔)を拝むこと」という誘惑をかけてきますが、イエスはその誘惑を退けます。その後、天使たちがイエスに仕えたとマタイは記しています。
この三つの誘惑のそれぞれの意味も、いろいろな解釈がありますが、この三つの誘惑に共通していることは「性急さ」です。
お腹が空いたら食事を用意しなくてはなりません。料理って案外大変で、献立を決めて材料をそろえ調理をして初めて、わたしたちの口に入ります。今でこそ便利になって、あちこちで食事ができたり、買ってきて食べたりできますが、それでもある程度は待つことが必要だったり、買いに行く手間が発生します。でも、その辺にある石が、いきなりパンになったら楽ちんですよね。すぐにお腹をいっぱいにすることができるわけです。高いところから飛び降りて無事なら、しかも天使たちが助けてくれるのが見えるなら、きっとすぐに神さまを信じる人たちが増えるでしょう。手軽に奇跡を起こせば教会も安泰、と思うかもしれませんね。そして、悪魔が協力してくれるなら、確かに手っ取り早いかもしれません。きっと神さまの力によって正直にやるよりも、「裏技」みたいなことをしてくれるかもしれません。神の国の到来を、効率よく進めることができるような気もします。これらすべての誘惑が、効率と、早さを保証してくれそうに思えるのです。手っ取り早く、効率よく宣教を進めることは素晴らしいことではないかと、多くの人が思うことでしょう。
しかし一方で、イエスの言う通り急がなくてもいいのかなとも思います。なぜなら、神さまは急いでいないからです。だって、もし急いで世界を完成させたいのなら、神さまは簡単にすることができるはずだし、こんな風にまどろっこしく人間に任せておいたりしないで、自分でやってみることでしょう。SFの話じゃないですが、もしかしたら人間を滅ぼして、ちゃんとできる種族を作ったほうが手っ取り早いかもしれません。でも、そうされておらずに、神の国はまだ来ていませんし、わたしたちも一歩一歩進んでいるような、むしろ後退しているような、よくわからない感じですから。
わたしたちはいろいろなことを「今すぐ」解決したくなります。もちろんそのほうがいいこともあるのですが、一方で「急いでしまった」ことによって、かえって問題が大きくなってしまうことがあります。今、大ごとになっている問題って、すぐに取り掛からなければいけないのですが、大ごとになる過程のどこかで「待てなかった」ことが災いしていることが多いのではないかと思います。特に「宣教」を行うにあたって、手っ取り早く信徒を増やすのなら、例えばものを配るとか、ご利益を感じやすいような教理に変えていくとか、悪魔に魂を売るのなら洗脳するとか、効率よくしようと思えばたくさんやり方はあります。でも、いつも「いつやるの、今でしょ」だけでやっていくと、わたしたちの心は耐えられなくなってしまいます。もちろん「すぐに結果が出なくてもいい」ことを認めることって難しいことです。それで行動を辞めてしまうのなら楽なのですが、そうではなくて「すぐに成果が出ないであろう」と思ってもやり続けるって、なかなかできることではありません。わたしは「それは本当に今なのか」という問いかけはいつも大事にしていたいと思うのです。急ぐことは簡単です。でもそうではなくて、一歩一歩大地を踏みしめながら、足の裏を感じながら歩くように、歩むことを大事にして、少しずつ神の国に近づくようにしていきたいのです。
