新たに生まれる

2026年03月01日

ヨハネによる福音書 3章1~17節

 今日は大斎節第2主日。福音書はヨハネからニコデモとの問答。ファリサイ派の一人であったニコデモが夜、イエスのところに来て質問をします。イエスは「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言い、そのことに驚いたニコデモにさらに「誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」と告げます。

わたしたちは後になってから話を聞いているので、イエスが語っていることが「洗礼」についてのこと、もしくは「世の終わりの復活」のことだろうと、簡単に考えることができます。しかしニコデモにとっては、いきなり言われたので、それこそ考えたこともなかった話です。今でこそ「洗礼にはこういう意味があるんだよ」とか「イエスが再び来るという信仰があってね」という話をできるのですが、何の知識もない状態で「新たに生まれる」と言われたら、なかなか「洗礼」や「世の終わり」につながったりはしないでしょう。

「新たに生まれる」とか「生まれ変わる」という概念は、今でこそ若者向けの流行りの小説の専売特許みたいに言われていますが、それこそイエスの生まれる前からある概念です。仏教の「輪廻転生」も、完全に別の人生になりますが、「生まれ変わる」わけですよね。ニコデモがどこまでそういったことを知っていたかは定かではありませんが、ファリサイ派は「復活」については肯定的でしたから、少なくとも世の終わりが来ての「復活」は信じていたと推測できます。一方で、その「復活」がどういうものだったのか。今、わたしたちが信じているように「新たな命」としての「復活」であったのか、「そのままの命」としての「復活」であったのかはよくわかりません。

教会に行き、聖書を学んでいると、わたしたちはたくさんのことを知ることができます。どんどん学んで、神さまのことがよくわかって、自分の生き方が少しずつ変わっていくのはよいものです。しかしわたしたちには大切な務めが与えられています。それは「宣教」ということです。自分で学ぶだけでなくて、神さまのことを知らない人に対して、わたしたちが「伝えて」いくことになっているのです。だからこそ、こうやって聖書を読むときに「キリスト教の知識を前提としている」読み方だけが正しい読み方になってしまうと大変です。つまり、今日の箇所ですと「洗礼のことを言っているんです」「ハイ終わり」だと、何のことやらさっぱり意味が分かりませんね。むしろニコデモの抱いた素朴な疑問の方が共感されるかもしれません。わたしたちにとっては、何度も何度も読んだ箇所で、好きな箇所だったら暗唱できるほど読んでいるものかもしれません。でも、聖書の登場人物にとってはいつも初めて体験することです。なかなか難しいかもしれませんが「何も知らずに自分がそこにいたらどうするだろう」という視点をもって読んでみると、新たな発見があるでしょう。それが「新たに生まれる」体験になるかもしれませんね。

「新たに生まれる」というのは、もちろん「洗礼」や「世の終わりの復活」を指している言葉です。しかし一方で、わたしは「日々新たに生まれる」こともあろうかと思うのです。すくなくともわたしたちは夜眠り、朝目覚めます。「眠りは死の兄弟」とも言いますが、わたしたちは毎日を「新たに生まれた」つもりで生きることもできるのです。そして、聖書に、神さまの言葉に、世界に向き合う時、いろいろな体験をすることで、前の自分とは変わっていきます。それも「新たに生まれる」ことの一つであると思うのです。この大斎節、自分の信仰に向き合って、「新たに生まれる」ように過ごしていきたいものです。


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