それなら楽なんだよ

2026年03月15日

ヨハネによる福音書 9章1~13,28~38節

 今日は大斎節第4主日。福音書はヨハネからイエスが生まれつき目の見えない人を癒やす場面。弟子たちが「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねますが、イエスはそれを否定し「神の技がこの人に現れるためである」と言い切ります。目が見えるようになったその人はファリサイ派の人々に問い詰められますが、イエスのことを信じると言い切ります。

 先週の水曜日の夜、教会の周りが2~3分の停電を繰り返しました。本当にピンポイントな停電で、しかも何回もあったので、なかなか落ち着かない夜になりました。翌朝、食洗器の調子が悪く、全然洗うことができません。停電でおかしくなったのかなと思い、買い替えも覚悟しました。しかし調べてみるとセンサーの異常が疑われる症状なので、思い切って分解掃除をしてみたところ、何とか直り、使うことができるようになりました。停電と通電を繰り返した後なので、基盤とかが壊れたのかと思っていましたが、単純なセンサーの異常でよかったのですが、なかなか示唆的だなと思いました。

 世の中のことには大抵「原因」と「結果」がある、とわたしたちは考えます。そう考えて対処するのですが、その結び付け方を間違うことがあります。いや、結構間違うのかもしれません。食洗器の件も「停電が起きた」と「そのあと不調になった」を結び付けて、基盤が壊れたのだろうと予想しましたが違いました。「センサーの汚れ」が「たまたまその時に異常が出る状況になった」だけでした。物事には「たまたま今起こった」ことも結構あるわけです。でもわたしたちは結構簡単に時間的に近くにあったことを結び付けて物語を作ってしまったりするのです。イエスの弟子たちも「目が見えない」ことを「神からの罰」だと結び付けたので、その原因を「誰が罪を犯したのか」という問いに変えました。しかし現代の医学で考えれば、生まれつき目が見えないことは「原因はわからないけど起こりうる」ことで、「罪」と結びつけるようなものではありませんよね。これも単純に「無知だから」と言い切ってしまうのは単純に過ぎるでしょう。わたしたちだって、わけのわからないこと、例えば15年前の東日本大震災を「神の罰」とか「人工地震」とかと結びつける人たちだって結構いたのです。いや、今もいます。

 時間的に近いことを結び付けて、因果関係をいつも証明できれば楽です。そう考えているのはとても楽です。でも、「風が吹けば桶屋が儲かる」のような、あきらかにこじつけのような因果関係もあります。世界中で起きていることは、単純な「原因」→「結果」で説明できることはほとんどありません。様々なことが長期的に影響を及ぼしあい、複雑に絡み合っているものです。わたしたちにとって大切なのは、世界中で起きていることを「神の摂理」で説明しようとするのではなく、単純な「原因」‐「結果」で示そうとするのでもなく、起こっていることはそのまま受け取ることです。そして、唯一コントロールできる自分の行動を「神さまのため」「神の国のため」に行うことです。生まれつき目の見えない人がいるのなら、その原因を何かに結び付けることではなく、その人にどう出会っていくのかということです。もし、わたしたちが、目の前にいる人に「神さまのために」手を差し伸べるのなら、もしかしたら10年後には神の国が到来するかもしれません。まぁ、そんなにすぐに来たら楽なのですが、多分そうはならないでしょう。でも、それは「しない」理由にはなりません。キリスト者として、神のために行動することを大切にして、待ち続けていたいものです。


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