死なないようにはできなかったのか

2026年03月22日

ヨハネによる福音書 11章17~44節

 今日は大斎節第5主日。福音書はヨハネからラザロを生き返らせる場面。ラザロが死んで四日後にベタニアにやってきたイエス。マルタとマリアの姉妹と多くのユダヤ人たちが悲しんでいるところに到着します。マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。イエスが憤りを覚えて墓に行き「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけると、ラザロは生き返って墓から出てきます。

 この出来事の時、イエスとマルタ・マリアの姉妹との会話は、最初から最後まですれ違っています。「もしあなたがいたら」と嘆く姉妹に対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と声をかけますが、それは「終わりの日の復活」のことであると解釈され、「今生き返る」ということだとは思われません。一緒にいたユダヤ人たちも、イエスが「ラザロの死を悲しんだ」ことに対して評価はしますが、「死なないようにはできなかったのか」と言う者たちもおり、イエスが「生き返らせることができる」と信じてはいません。「生き返らせる」ことができるなんて思ってもみないことだったのでしょう。

 わたしたちは様々なことを予想し、あらかじめ備えています。例えば地震などの災害があっても大丈夫なように避難経路を確認して避難訓練をし、備蓄の食品や飲料を用意しています。事故にあったり病気になっても何とかなるように保険をかけたり、健康に気を使ったりします。わたしたちの行動の多くは、実は様々な「予防」に費やされています。しかし考えてみると、こうやって「予防」に気を使えるのって、それなりに余裕があるからです。明日食べるものが無い時に、いつ起こるかわからない災害のために食べ物をとっておくことはしません。明日パンを買うお金がないのに、何かを買うお金を取っておくことは難しいでしょう。起きることはわかっているけど、いつ起きるかわからないことのために備えておくのは非常に大変なことです。むしろ「何か起きるんじゃないか」という予想でがんじがらめになってしまって、動くことができなくなってしまうことだってあります。

 余裕があるのだったら「予防」しよう、と考えるのは自然なことかもしれません。しかし一方で、「心配事の8割は起こらない」とか「杞憂」とか言われているくらい、悪い出来事ってなかなかおきません。人間は生きている以上いつかは死にます。しかしそれがいつなのかは誰にもわかりません。どんなに予防に努めていても、思いもしないことに巻き込まれて死んでしまうこともありえます。だから、「死なないようにする」というのはなかなか難しいことです。そして「悪いことが起きないようにする」ことも難しいことです。というより不可能です。

 だからこそイエスは憤りを覚えたのかもしれません。「あなたがいたら死ななかった」と、「起きてしまった過去」に注目しているからです。「起きたこと」を「起きなかったこと」にすることはできません。どんなに予想していても、その予想を超えて悪いことが起きることはよくあります。だからこそイエスは「今」「これから」「できること」「やること」に目を向けさせます。つまり「死んでいた人」は呼びかけに応えて起き上がり、人々はラザロの手足の布をほどくことができたのです。

 わたしたちに必要なのは、過去を振り返ることではなくて、未来を予想することでもなくて、「今」できることに目を向けることです。起きたことに注目するのではなく、今始まることに目を向けるのです。悲惨なことがあるのなら、奇跡もまた起きるのです。いや、起きると信じることが始まりなのだと思います。これから起きることが神さまの御心に適うと信じ、進みたいと思います。

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