過ぎ越していく

2026年03月29日

マタイによる福音書 27章1~54節

 今日は復活前主日。いよいよ今週は聖週です。「聖週」とはイエスのエルサレム入城を記念する復活前主日から始まり、十字架の死を通って復活する復活日までの1週間のことです。毎日、それぞれの出来事を記念した礼拝が行われます。今年も木曜日と金曜日に予定していますので、ぜひ参加してみてください。今日の福音書はマタイからこの1週間の出来事、イエスの受難の様子が読まれます。主の受難については4つすべての福音書に書かれており、細かい部分の違いはありますが、基本的な流れは同じです。毎年朗読箇所が変わりますので、少し気が重い箇所ではありますが、読み比べてみると良いでしょう。

 イエスが十字架にかかったのは過越際の前日であると伝えられています。「過越」とは、ユダヤ教の大事な祭りのうちの一つで「出エジプト」の出来事がその由来です。羊を屠り、その血を玄関の戸柱と鴨居に塗り、夜にはその肉を焼いて、種無しパンと苦菜を添えて食べる、と言う習慣があります。かつて出エジプトの時、この印(玄関の血)のある家を、神が過ぎ越していった(災いが起こらずに通り過ぎていった)ことから来ています。結果、ユダヤ人たちはエジプトからユダヤの地に向かって出発することができた、という民族の由来である大きな出来事を記念したお祭りです。

 「過ぎ越し」とは、ただ「災いが起こらなかった」ということではありません。出エジプトの出来事は、民族の指導者となったモーセが、ユダヤ人でありながら王女に拾われたため、王子として育てられます。しかし自分の出自を知り、ユダヤ人の中に戻っていきますが、うまく受け入れられなかったため、ミディアンに逃れます。しかしもう一度ユダヤ人たちの元に戻り、ユダヤ人たちを連れて「過ぎ越し」の出来事の末にエジプトから出発します。その後、エジプト軍が戦車で追ってきますが、紅海を割って通り抜け、後を追ってきたエジプト軍は閉じる紅海に飲み込まれて逃れることができました。そしてさらに、40年間荒れ野でさまよった後、ユダヤの地に入ることができた、という流れになります。苦しみの中に合った人々が、さらに試練に逢いながらも、約束の地へたどり着いた、ということ。「苦しみ」や「試練」を「過ぎ越して」、次の段階に向かったことを意味します。

 イエスもまた、神の子としていただけではなく、公生涯の間、人々の中で働き、様々なしるしを行って過ごしました。悪魔の誘惑にも逢い、無実なのに捕らえられ、十字架につけられてさらに苦しみました。不自由のない神の国での生活から、不自由だらけの人の間で生きたのです。イエスが息を引き取った時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと記されています。垂れ幕と言うのは神殿の一番奥にかけられている布で、その先は神の国であるという象徴です。イエスはその死によって、人の国から神の国へ「過ぎ越して」行ったのです。そしてイエスはモーセと同じように、一人で行ったのではありません。モーセは物理的に多くの人を連れて過ぎ越しました。しかしイエスは、この出来事によってすべての人を連れて「過ぎ越した」のです。これによって、多くの人が共に生きるのが難しい世界から、共に生きる世界へと移っていく基礎が据えられたのです。

 教会は「共にある」ことを大切にしています。それは本来、神さまが「人は共に生きるものである」と定義したからであり、イエスが「共に生きることを大切にしよう」と言って過ぎ越していったからです。今週から始まる「聖週」はその出来事を確認する、教会にとって一年で一番大切な時です。主の受難を覚えるのは、ちょっとしんどいこともあります。でもわたしたちは毎年、この試練を「過ぎ越して」次の段階に進んでいきます。そしてすべてが過ぎ越した来週、復活を祝いましょう。

Share
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう