ガリラヤへ

2026年04月05日

マタイによる福音書 28章1~10節

 イースターおめでとうございます。木曜日に雪が降りましたが、だいたい溶けましたね。この溶け方の早さは「やっぱり春になったんだな」と感じさせられます。イースターは、ヨーロッパの人たちにとっては春を告げるお祭りでもあります。内地の方だと、もう桜が咲いていると聞いていますが、北海道だとちょうど春が始まるころで「復活」「命」という、イースターの大事なポイントをしっかり感じることができていいと思っております。福音書はマタイから、復活の様子が読まれました。マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に行ってみると、墓をふさいでいた石が転がって開いており、そこに天使がいて「あの方はここにはおられない」「復活なさったのだ」と恐れる二人に告げます。そしてさらに「あなた方より先にガリラヤに行かれる」と言います。そして墓から出て弟子たちに知らせに行こうとすると復活のイエスに出会います。そしてイエスは「使徒たちにガリラヤに行くように告げなさい」とマリアたちに言うのです。

 「ガリラヤ」というのはイエスや弟子たちの生活の場所です。地元です。よく知っている場所です。そして、墓のあるエルサレムからしたら田舎であり、辺境の地でもあります。天使も、そしてイエス自身も「ガリラヤへ行きなさい」と告げるわけですが、こんな疑問が浮かびます。なぜイエスは、エルサレムという首都であり、ユダヤの中心であった場所ではなく、田舎であり、国としては端であるガリラヤに行かせるのだろうか、ということです。「復活」の様子を見せ、多くの人に信じさせるのだとしたら国の中心の方が効率的ではないか、と思うのです。しかしイエスは「ガリラヤ」に行くように弟子たちに告げたのです。

 「ユダヤの国」という単位で見たら、確かにガリラヤは端っこです。日本という単位で見たら東京が中心で、釧路は端っこですね。北海道という単位だったら札幌が中心で、やっぱり釧路は端っこですね。では振興局を中心にしてみると、ようやく釧路が真ん中にやってきます。視点を置く場所によって、中央と辺境は変わってくるものです。イエスにとって、自分の活動の中心は「ガリラヤ」の「カファルナウム」でした。中心の位置をガリラヤに据えると、実はエルサレムは活動の「端っこ」になるのです。そして、異邦人が多く行き交うガリラヤは、例えばローマなどから見たらエルサレムよりも少し近い位置にあります。どこが中心になるかによって、見方は変わるものなのです。少なくともイエスたちにとって、ガリラヤは「中心」であり「再び集まるところ」であり、世界に向かって出ていく中心になっていったのです。

 今、わたしたちは「釧路」の地にあって信仰を守っています。日本全体で言っても、北海道の中においても端っこにいます。ここは「ガリラヤ」です。いや「ガリラヤ」であらねばなりません。わたしたちにとって信仰の中心であり、ここから各地へ派遣されていく中心であり、疲れたときにイエスさまに出会うために戻ってくる場所でもあります。都会から見たら辺境かもしれませんが、わたしたちにとっては世界の中心です。あちこちの観光地に「地方発送承ります」とのぼりが立っています。そこは世界の中心なんです。自分のいるところを「辺境」とか「端っこ」とするのではなく、わたしたち自身のいるところはどこでも「世界の中心」なのです。その「中心」からしか、各地方に発送できないものがあります。それは、わたしたち一人一人の信仰なのです。イエスは「ガリラヤに行く」ように弟子たちに言いました。それは、自分たちの本拠地にいったん帰って、もう一度出ていこう、というメッセージです。イースターに再びイエスと出会い、ここからまた旅立っていきましょう。


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