「信じる」を知る

2026年04月12日

ヨハネによる福音書 20章19~31節

 復活節も早いもので2週目になりました。福音書はヨハネから、イエスの復活とトマスの迷い。使徒たちが恐れて閉じこもっているところにイエスが現れ「あなたがたに平和があるように」と告げ、聖霊を授けます。そこにいなかったトマスは疑い「わたしは見て、触って確かめなければ信じない」と言っていると、1週間後にイエスが現れたのを見てトマスが復活を信じるようになった、という流れです。イエスは最後に「見ないで信じるものは、幸いである」と呼びかけます。

 トマスは「見なければ、触らなければ信じない」と言いますが、「信じる」とわたしたちが言う時、何らかの理由や証拠があるから信じていることだけではありません。人と待ち合わせをするとき、その人が「来る」という証拠があって待ち合わせの場所に向かうわけではありません。家にいて、その人が待ち合わせ場所に現れたのを、例えば遠隔操作のカメラなどで確認してから出かけるのだとしたら、自分の方が大遅刻です。わたしたちは結構な頻度で「証拠や理由がなくても信じる」という行動をしているものです。それから、学校なんかで習ったこともそうですよね。例えば歴史。「関ケ原の合戦で東軍が勝って、徳川家康が江戸に幕府を開いた」と教わりますし、みんな知っていることですよね。でも、その証拠は、誰が見てきたのか、と問われると、当時それをリアルタイムで知っていた人たちはみんな天国です。今だったらビデオなどで検証することができますが、そんなものはありません。誰かが書き残した文書だけなんですが、それも後になって偽作だとわかったり、創作が盛り込まれていたりすることもあります。でもまぁ、そういうことになっているので、みんな信じているのです。実は、わたしたちは多分、見ないで信じていることの方が多いんです。証拠も確たるものはなかったりします。実際に自分で物理や化学の法則を確認した人は少ないのですが、物理法則や化学を信じています。

 「信仰」とか「神さま」とか「宗教」というのはよく槍玉にあげられます。「証拠がないじゃないか」「誰も見た人はいないじゃないか」「迷信なんじゃないか」。でも、科学の方だって「仮説」に「仮説」を重ねているだけで、意外と宗教的なことと変わりがなかったりします。「プラセボ効果」なんて、偽物なのに薬以上に効いてしまうこともあります。「これは薬だ」と聞かされて「信じた」からこそ「効力」があるわけですが、「信じる」力というのは、ものすごく強いものです。「見て」「触れる」ことのできるものだけでなく、「見えなくて」「触れることのできない」ものだって、わたしたちは信じることができます。「証拠」があって、それを実際に確認して信じるものだけしかなかったら、わたしたちの世界は相当狭い世界になってしまいます。しかし、わたしたちは「見ないで信じる」者になっています。少なくともここに座っている皆さんはそうだと思います。

 「見ないで信じる」ということは、時々「弱さ」や「愚かさ」と結びつけられることがあります。しかしわたしはそうではないと思っています。むしろ「信じる」ことができることは「強い」のだと思うのです。トマスは今日のこの出来事を通して「強さ」を得ました。他の使徒たちも同様です。最初はイエスの死に際して逃げ去ってしまっていましたが、イエスを信じることによって、神の国を広め、人と共に生きることを大切にし、殉教に至っても止まることはありませんでした。もちろんそれは「狂信」のような、一切何もかも顧みなくなるような形ではなく、わたしたちと同じように悩みつつもイエスを「信じて」、イエスの教えたことを人々に伝えていったのです。わたしたちもまた、イエスの復活を「見ないで信じる者」として、主の示された道をこれからも歩んでいきましょう。


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