後で気づく
ルカによる福音書 24章13~35節
復活節も3週目になりました。福音書はルカから「エマオへの道」。クレオパともう一人がエルサレムからエマオへ向かう途中、イエスに出会います。二人は気づかずにイエスに対してイエスの出来事を話しますが、イエスは「ああ愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことをすべて信じられない者たち」と言いながら、彼らに対して聖書を解き明かします。宿に泊まり、食事の時パンを裂く姿でイエスだとようやく気が付きますが、姿はすぐに見えなくなります。その後二人はエルサレムに戻って使徒たちにそのことを告げるのです。
「イエスが復活した」という記録はいくつも聖書に残されているのですが、使徒たちや婦人たち以外の人に現れたという話は、実はあまり多く残されていません。しかしこの「エマオへの道」でイエスに出会った出来事は、使徒たち以外の、それまで一度も名前が出てこないクレオパがイエスに出会ったという貴重な報告です。もしこれが「関わりの深い人たち、例えば使徒たちや世話をしていた婦人たちだけしか出会えない」という出来事なのだとしたら、イエスの復活が、その後何千年も多くの人に広まることにならなかったのかもしれませんね。そしてこの出来事は、誰もが復活のイエスに出会うことができること、そしてそれが「後になってから気づく」という性質のものであるということを、わたしたちに伝えています。
わたしたちは日々の生活の中で、自分の予定を決めて行動します。完全に行き当たりばったりの人もいないわけではないのですが、少なくとも大まかに、今日は買い物に行かなきゃなとか、どこに電話しなきゃなとか、考えているものだと思います。でも思い通りに行かなくて、突然誰かが訪ねてきて、ラジオなどで見聞きしたことに影響されて出かけたりなど、計画通りに進むことはあまりありません。また、人と話している時、これを言って、そうしたら相手がこう返してきて、こう言い返して・・・、と詳細に計画を立てて、その通りに話す人はいません。人と話していると、脱線に脱線を重ねて、後で振り返ると「どうしてこういう話になったんだっけ」と思うこともしばしばです。その時は意味が分からないと思っていても、しばらく経ってから振り返ると「ああ、こういう意味があったのか」と「気が付く」ことがたまに、いやしばしばあります。計画を計画通りに遂行するのならAIや機械にやらせておけば十分です。人は「イレギュラー」のなかから何かを見出していくものです。そしてだいたいのことは渦中にいるときはわからず、後で振り返ってみてからわかるものです。残念ですが、今やっていることに「どんな意味があるのか」を事前に知る方法はありません。
イエスはわたしたちと一緒に歩いてくれています。わたしたちの歩みに、いつの間にか同行してくれています。ところがわたしたちは基本的にそのことに気が付きません。「足跡」という有名な詩も、「振り返った時に足跡が一つだった」ことから、イエスが「あなたを背負って歩いていたのだ」ということにつなげています。一緒に歩いていても、背負われていてもわたしたちは気が付かないのです。これはどんなに敏感な人でも感受性が豊かな人でも同じです。イエスは「一緒に歩いてくれているのに気づかない」者で、「気が付いたときにはいなくなっている」者なのです。
わたしたちにはイエスさまがついています。そしていつも隣で、歩みを共にしてくれています。Sのことだけを信じましょう。そして必要な時には、イエスは必ず「今、わたしがいるよ」と示してくれます。先行きの見えない時代ですが、イエスがいることだけを信じて、これからの歩みを進めていきましょう。
