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2026年04月26日

ヨハネによる福音書 10章1~10節

 復活節も4週目になりました。福音書はヨハネから「羊の囲いのたとえ」の前半部分。イエスがファリサイ派の人々にこのたとえを語ります。「わたしは羊の門である」とイエスは語り、「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである」と続けます。

 教会では様々なモチーフに「羊」が用いられています。イエスのことを「世の罪を除く神の小羊」と言いますし、聖餐式でも歌っています。でも、わたしたちにとって、いや日本人の多くの人にとって「羊」はそんなに身近な動物ではありません。ペットで飼っているという人をあまり見たことはありませんし、日本の牧場で飼われているのは牛や馬が多いでしょう。ジンギスカンに使う羊の肉もほとんどが輸入品です。普段見かけるという意味では鹿の方が身近かもしれませんね。一方で「羊」は早い段階で家畜化されたこともあり(一説によれば紀元前七千年くらい)「人類」にとっては、とても身近な動物です。わたしたちも「ウール」の形で、多くの人が触れているのではないでしょうか。その他にも今は植物で紙を作りますが、聖書は「羊皮紙」に書かれ、巻物の形で伝えられていました。そう考えると聖書とヒツジは切っても切れない間柄です。

「羊」には「群れをつくりたがる」習性があることが良く知られています。また「先導者に従う」傾向が強いことも知られています。こういった習性は家畜化するうえでとても助けになったでしょうし、神さまに率いられていることの象徴として描かれやすかったでしょう。その一方で、あまり羊が身近でないわたしにとっては、聖書でよく「羊」のたとえが出てくるのですが、どうも実感がわかないなぁと思うのが正直なところです。

 動物を飼う場合、完全に放し飼いにすることは少なく、放していたとしても、ある一定の範囲に囲いを作ってその中で飼うのが普通です。犬や猫であっても、わたしが子どもの頃には放し飼いも多かったですが、今はしっかりつないだり、室内で飼ったりすることが多くなっていますよね。ですから、その囲い(家や部屋もそうです)には「入口」があります。一緒にいる人間はその囲いに自由に出入りできるけれども、動物たちはそうできないようになっています。そして基本的にはみなさん「入口」から出入りすることと思います。家だったら玄関ですね。いつも窓から出入りする人はいないでしょう。確かに「入口」以外のところから入ろうとする人がいるのなら、それは怪しい人に違いありません。わたしたちの家なら

 聖書に書かれているのは「神の国」の話です。「羊の囲い」という「神の国」に入るのには、正式に入口から入る必要があります。その入口とは何かというと「イエスに出会った」ということです。イエスが「わたしは門である」と書いている通り、わたしたちはイエスに出会うことを通して神の国に導かれます。ここで大切なのは、イエスに最初に出会う時、それが「教会」とは限らないということです。イエスに出会う方法はたくさんあって、本であったり、人であったり、幼稚園などの施設であったりします。でも、必ず、「イエスに出会う」ことがなければ、群れに加わることはありません。正直なところ、地上の教会は限界も多いです。牧師だってただの人なので、好き嫌いだってあるでしょう。聖書の言葉だって、読み方がたくさんあって迷ってしまいます。だから「この教会でなければならない」とか「このやり方でなければならない」というものでもありません。わたしたちにとって大切なのは、多くの人がイエスに出会えるようにするということです。結果としてイエスに出会えていればそれでいいのです。イエスという入口を大事にしつつ、世に伝えていきましょう。


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