父の家には場所がある

2026年05月03日

ヨハネによる福音書 14章1~14節

 復活節も5週目になりました。福音書はヨハネから「告別説教」の最初の部分。最後の晩餐の後、イエスは「どこへ行かれるのですか」というペトロの問いに続けて自分のことを語ります。「私の父の家には住まいがたくさんある」、そして「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは語ります。

 今日読んだ箇所は「逝去者記念式」や「葬送式」で読まれることになっているところです。「父の家」というのは「天の国」、つまり神さまがいるところです。要は「亡くなった方は天国に迎えてもらえているよ」ということを伝える箇所であり、そのために「イエスが場所を作りに行く」と言っているということになります。だからわたしたちも安心して、天の国に向かって故人を送り出そう、ということになるでしょうか。故人の魂も、一人で寂しいところに行くより、誰かが一緒にいてくれる場所に行ったほうがいい、とわたしたちは思います。

 「居場所」というのはわたしたちにとって大切です。学校、会社、自宅もそうですが、その中で「自分はここにいていいんだ」という場所があるのとないのとではかなり違います。しかもできれば複数の居場所があると良い、特に精神的な安定に良い、ということはよく知られています。幼児教育でも「安全基地」という言い方があり、「ここに戻れば安全・安心」という場所が確立されると、子どもがそこを離れて探索に出かける(様々な体験をするようになる)と言われています。自分が「存在しているだけで大丈夫」という感覚を持つことのできる場所です。しかし、結構多くの人が「自分の居場所がない」と思っていたり、「自分の居場所はここしかない」と思い詰めて、少ししんどいのに無理をしてしまって、疲弊しているのが現実です。ここで少し自分自身のことを思い返してみましょう。自分の中で「ここは居場所だ」と思える場所はいくつあるでしょうか。例えば「会社」や「学校」など、仕事をしたり学んだりするところは、そのことをこなしている限りにおいて、役割が当たっている間は「居場所」足り得ます。そして「自分の家」でしょうか。大抵の方は、自分の家が自分の居場所であると思います。それが自室だったり、ある一定のスペースだったりするかもしれませんが、同じことです。それ以外にも例えば「習い事」だったり「趣味の仲間・サークルなど」であったり、「古くからの友人」であったりすることもあります。そして「町内会」や「消防団」などの地域のつながりもあります。もちろん「教会」もその一つです。

 「教会」は古くから人の居場所でありました。家族でも、会社や学校などの集団でもない、第三の集団として、教会は人類社会の中で大事な役割を担ってきたのです。もちろんお寺や神社、モスクなどのつながりもそうです。かつては地域のつながりとほぼ同一の部分もありましたが、重なり合いながらも少し違う集団として機能し続けています。「天の国」という「父の家」に、わたしたちは将来的な居場所を持っています。そしてこの地上においても「教会」という「父の家」に自分の居場所があると素敵だと思っています。もちろん地上の教会には限界があります。「父の家」でありながら、人を排除し、居場所として機能しえない場合もたくさんあります。でも、その中で居場所のない人に居場所を提供することが、少しずつでもできていたのは事実です。その「教会」に連なるわたしたちは、自分だけではなく、たくさんの人の「居場所」になれるよう、地上の「父の家」である教会を整えて、たくさんの人を迎え入れていきたいものです。もちろん簡単なことではありませんが、多くの人が「父の家には居場所がある」と知り、足を向けてくれるようになりたいものです。


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