ぶどうの蔓はよく伸びる
2026年05月10日
ヨハネによる福音書 15章1~10節
復活節も6週目になりました。福音書はヨハネから「ぶどうの木のたとえ」。「わたしはまことのぶどうの木」とイエスは語り「わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ」と言います。 ぶどうは「世界最古の果物」と言われ、中近東、つまりイエスの生活していたあたりが原産だとされています。イエスにとっても身近な植物であったでしょうし、「酒」と言えばぶどう酒(ワイン)という地域も多く、最後の晩餐でも口にしていた飲み物です。今では世界中に広まり、各地で独自の品種が作られています。ぶどうはスペースさえあれば蔓をどんどん伸ばして広がり、品種にもよるのでしょうが、かなり広い範囲まで広がることができます。収穫しやすいように垣根や棚に這わせておくのが一般的ですが、うまくやれば教会の壁などに沿うように育てることもできます。もちろんものすごくおいしいものを育てようと思うと手入れが大変なのですが、枝を地面に植えておけば根付くなど、挿し木や接ぎ木で簡単に増やすことができ、農業としてもやりやすかったものと思います。 わたしたち人間は、個人個人が独立しているように見えます。しかし、昔からそうですが、いや、昔の方がそうだったかもしれませんが、人間は「集団」で生活する生き物であり、完全に独立して生きるというのはかなり難しいものです。肉体的にも精神的にも、人間は「誰かと共に生きる」ことを前提として生きている生物なのです。これをイエスは「ぶどうの木」に例えたわけです。今、わたしたちは「個」を大事にする時代に生きています。「個性が大事」と教育の現場などでもよく言います。しかし一方で「集団」であることも大事にされ、保育園などから始まり、わたしたちは「人共に生きる」「集団で生きる」術を身に付けていきます。その最小単位が「家族」ですね。例外はありますが、わたしたちは基本的に何らかの集団を形成して生活していくものです。独立して生活しているように見える修道者たちも、「修道院」に集まって、集団で過ごすことを大切にしています。近年、「個」が大事にされるあまり、家族単位、個人単位で「孤立」してしまう傾向がみられることがあります。「ぶどうの木」であれば、どの蔓がどこにつながっているかわかりやすいのですが、わたしたち人間の「つながり」は目に見えません。「ぶどうの木」の蔓は、どこかにつながっていないと、例えば風などで折れてしまえば、枯れて下に落ちてしまいます。人間は「つながり」を失っても、個人差はありますが、やはり元気が無くなってしまうものです。時々、断ち切ったほうがいい関係もあったりするのですが、それでも、誰かとなんらかのつながりを持っているということは大切です。ぶどうの木も、たくさんの実がなるように「剪定」をしますが、人と人とのつながりを「剪定」することもあるでしょう。こう考えていったとき、なによりわたしが大事だと思うのは、人間には「神さま」とのつながりが必要だということです。別にこれが「仏さま」とか「科学」とかでもいいと思いますが、「自分ではどうにもできないもの」とのつながりは大切なのです。「ぶどうの木」は「大地」という、ぶどうの木ではどうにもできないものから養分を受けて成長します。人間も「神さま」という、自分ではどうにもならないものから養分を受けて成長します。この「養分」とは何かと言えば、わたしは「生きる目的」なのだと思うのです。わたしたちキリスト者であれば「神さまが創造された世界を、すこしずつでも『神の国』に変えていく」という大きな目標があります。もちろん自分の手の届く範囲で、ですが、こういった「大きな目標」があると、自分の人生に一本筋が通るのです。わたしたちは、神さまとの「つながり」を大事にしながら、自分の大きな目標を目指して、歩みを進めましょう。
