一つになって

2026年05月17日

ヨハネによる福音書 17章1~11節

 復活節も7週目になりました。木曜日が「昇天日」で弟子たちは天に帰るイエスを見送った後、聖霊降臨日までの少し不安な期間を過ごしています。福音書はヨハネから「告別の祈り」の冒頭部分。最後の晩餐の後、イエスが長い祈りをささげます。イエスは「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです」と言い、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈ります。そして最後に「わたしたちのように、彼らも一つになるためです」と結びます。

 人間は集団で生きる生き物です。一人ひとりの力はそれほど強くありませんが、役割を分け、力を合わせるとき、人間は最大の力を発揮します。一人ではできないことでも、多くの人が関わることによってできるようになります。人類の進歩の歴史は、少数の天才だけが行ったのではなく、少数の天才が見つけたことを多くの人が行うことができるようにする過程で進んできました。集団として「一つになる」というのはとても大切なことなのです。一方で「一つになる」のは難しいことでもあります。人間は集団になると分裂するものです。教会の歴史もそれを示しています。最初は一つの流れだった教会も、言葉の違いや習慣の違い、考え方の違いでどんどん分裂して、単立の教会や異端と呼ばれるところも含めれば、一体いくつの教派があるのかもはやわからないほどです。

 わたしたちは聖餐式のときに「世にある者も世を去った者も、すべての人を一つの体とし、聖霊を満たしてください」と祈ります。パウロも「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」とコリントの信徒への手紙の中で語っています。教会として「一つになる」というのは、別に目新しい考え方というわけではありません。

 一方で、「一つになる」というのは難しいことです。危機の時代であれば「呉越同舟」と行くのかもしれません。でもなかなかそうはいきません。先ほども話した通り、教会の歴史は分裂の歴史でもあります。しかしそれでも、「一つの体として動けるんじゃないか」という運動も続けられています。釧路の牧師・指導者会は珍しく、釧路にあるほとんどすべての教派が参加しています。特にカトリックと正教会と福音系の教会のすべてが参加しているというのは珍しいのです。だいたいはどこかが排除される形を取っているからです。(いろいろ事情はあるのですが)札幌や東京などよりも、辺境にある釧路の方が「主にある一つの体」として動くことができているのは皮肉なことです。それでも、考え方の違い、習慣の違い、言葉遣いの違いを乗り越えて、一つの体であろうとすることに、わたしは尊敬を覚えます。そこには「聖霊」の力が働いているのだろうと信じることができます。

 だからこそ「教会が一つになる」ということを、わたしは大切にしたいと思っています。教派の違いというのは、それぞれの背負った歴史もあり、なかなか乗り越えるのが大変です。しかし、各地でその違いはともかくとして、「主の福音を世界に知らせる」という目的でひとつになることが、ちょっとずつでもできていることこそ「福音」なのかもしれません。「一つになる」と言っても、別に「考え方」も「習慣」も「言葉遣い」も、すべてのことを一致させる必要はありません。指と目と、足に意識があったとして、絶対違うこと考えています。が「身体を維持する」目的は同じです。わたしたちは「キリストの福音を知らせる」という目的であれば、そのやり方はともかくとして、一つになることができるはずです。それを導くのが聖霊です。わたしたちの間にある空気です。聖霊が「教会が一つになる」ことを導いてくれるよう、祈り求めていきましょう。


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