父と子と聖霊の名によって

2026年05月31日

マタイによる福音書 28章16~20節

 本日は三位一体主日。先週の「聖霊降臨日」によって、父なる神、子なるイエス、聖霊の三つの位格が揃ったことを祝う日です。祭色は「白」で、教会暦は今日から聖霊降臨後のサイクルに入っていきます。福音書はマタイから「大宣教命令」と呼ばれる場面。復活のイエスがガリラヤの山で、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と呼びかけ「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と伝えます。最後にイエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と励ます、マタイによる福音書の結びの場面です。

 わたしたちの信じているのは「三位一体の神」です。「三位一体とは何ぞや」と問われれば、教科書通り「父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神の三つの位格のある一体の神さま」ということになります。「三つの位格とは三つの神ではないか」と問われれば「そうではなく一つなのだ」と答える以外にないようです。「三位は一体において、また一体は三位において拝まれるべきである」と「アタナシオ信経」という文書に書かれています。(これは祈祷書の末尾にあります)初期キリスト教の時代に成立した考え方で、キリスト教信仰の「根幹」と言うべき信仰です。

 そもそも「三位一体」というのがどこから来たのか、実際どのような根拠があるのかと言うと、今日の福音書にある「父と子と聖霊の名によって」という言い回しが使われていることなどが根拠にありますが、はっきりと「三位一体」という言葉が使われている箇所はありません。ただ、聖書を読んでいくと、この「三位一体」ということが「なんとなく」わかるように思われるのです。厳密に、論理的に考えていくなら「三位一体」は否定されてしまうでしょう。現に「三位一体論否定」のキリスト教の教派もあります。(ユニテリアン派など)また、キリスト教系新興宗教はほぼ三位一体説を否定しています。しかしこのような、ある意味「非合理的」「非論理的」な信仰がキリスト教の中心にあるということが、わたしは大事だと思っています。この信仰はとても古いもので、わたしたちの唱えているニケヤ信経において正式に成立しました(325年)が、当然それ以前から信じられてきたものですから、大枠はもっと古いのです。古いというと「古代人の迷信」という言い方をする人もいるのですが、それは違います。その時の様々な論争の史料・文献などを読むと、当時の限界はありながらも、かなり論理的に考えて「三位一体」しかない、という結論に達したことがわかります。大勢の神学者たち、しかも当時の天才たちが議論を戦わせて、そこに聖霊の導きもあって、この結論に達したであろうということが大切なのです。

 確かに、わたしたちは「わけのわからない」ことをどうにかして理解しようとするものです。だから探求はやめてはなりません。しかし一方で、神さまというものが、わたしたちに簡単に理解されてしまうものでよいのでしょうか。わたしはそうではないと思うのです。「理解する」ということは、すべてを分かるということですが、本当に神さまに対してそんなことができるわけがないと思います。むしろ謎が多いほうが、神秘的なほうが神さまを魅力的に感じるのではないでしょうか。人間も同じことだと思います。だからわたしたちは「わからないこと」はそのままに、神さまへの信仰を育てること、そして時々「わたしにとって神さまとは何か」ということを思い巡らすことが、大事になってくるのだと思っています。そうやってわたしたちが思い巡らすとき、神さまはわたしたちにその「三位一体の神秘」を教えてくださるでしょう。


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